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2018年11月29日(木)

城北OB現役パイロット

現役パイロットOB座談会(#02)

村松康雄(兄)

私も1980年、現役の時航空大学校を受験しましたが落ちました。家族は飛行機が落ちたら危ないという漠然とした不安を持って反対もしており、一浪後国立理系大学に進学しました。大学時代はパイロットになりたいという思いを押し殺していたのです。1984年頃は就 職率も良かったのですが大学院に進みました。就活の時期になり日本航空がパイロット自社養成を再開したと知り応募したのです。私たちの子供のころの将来の夢と言えば、パイロットかプロ野球選手かプロボウラー(プロのボーリング選手)になるのが流行っていて、パイロットになりたいと思いました。

叔母が羽田の近くに住んでいて、遊びに行ったとき初めて羽田空港に連れて行ってくれた。当時はパンナム(パンアメリカン航空)のジャンボジェット機ずらっと並んでいて、ごう音とともに飛び立っていく姿を見て、あああれに乗ってどこかに行きたいなと思ったのです。特に両親が豊島区出身で私が板橋区生まれ、城北が板橋区にあり、この地域から出たことがなかったので、余計飛行機に乗ってどこかに行きたいと思いました。

黒野浩太郎

私は昭和38年(1963年)生まれ、高校のときは硬式テニス部に所属していました。進学の際、航空大学校という考えも少しはありましたが、テニスばかりしていた上に、選択した科目が生物と化学だったので数Ⅲと物理が必要な航空大学校は受けることもできず、普通の大学を目指すことになりました。

高3の夏までテニスばかりしていたので受験したすべての大学を落ち、一浪して慶応義塾大学に進学しました。大学でも体育会庭球部に入りました。たまたま庭球部の先輩でJALの機長が2人おり、よくテニスコートにいらしていたので話を聞くと「普通の大学から自社養成という制度で航空会社に入るチャンスはあるから、だめもとでも受けてみたら」と言われ受けてみたら運よく合格したのです。

私の父が防衛庁に勤めており、鹿児島県の喜界島にある海上自衛隊の通信基地の所長として転勤することになり、奄美大島から16人乗りの飛行機に乗った時の機内から見る眺めがすばらしく、海がとてもきれいだったという印象があります。その時に「パイロットになれたらいいな」と漠然と思っていました。

一つ上の先輩がJALの自社養成パイロットの採用試験を受けたのですが合格できませんでしたし、とりあえず受けてみて身体検査に通れば桶川の本田航空でセスナに乗って適性検査が受けられるので、実際にそこまで行けたら御の字だろうと思って受けたら運よく合格してしまいました。

採用試験の時から村松(兄)とはずっと一緒で、同い年と思っていたのでタメ口をきいていたら、実は2つ上の先輩ということが判明し、それ以来敬語で話すようになりました。

1987年12月からアメリカのカリフォルニア州のナパで訓練を開始して半年たった頃、「いい加減同期なんだから敬語はやめよう」と言われましたが、2つ上の先輩に対してタメ口に戻すのに苦労したものです。

我々が会社に入ったときは、セカンド・オフィサー(パイロット資格を持っている航空機関士)制度というものがあり、まずは航空機関士として1年乗務し、そのあとボーイング747の副操縦士を1年半、その後マクドネル・ダグラス社のMD11の初めての副操縦士として3年半、1997年にボーイング747-400の副操縦士に移行して2001年に機長(キャプテン)になりました。機長になって1年後から自社養成パイロットの採用担当をやりました。その時わかったのは「パイロットの世界にはコネがあっても全く関係ない」という事。どんなに強力なコネがあっても適性検査や身体検査をクリアーしないとダメで、合格率は3~5%ぐらいになってしまうのです。

2008年からは査察操縦士※8としてパイロットの審査業務を担当しておりましたが、2011年に747-400が退役することになり、7か月半の地上業務を経て2012年からボーイング737-800の機長に移行、日本航空のグループ会社のジャルエクスプレス (通称 JEX)に出向後、2014年にJALとJEXが統合して現在に至っています。2018年12月から異動でグループ会社のJ-AIRに出向することになりエンブラエル(ブラジル製ジェット旅客機)という飛行機のライセンスを取得するための訓練を受けています。

※8 国土交通大臣の指名を受けて社内のパイロットの知識および能力を審査する資格を有するパイロットを査察操縦士という。

司会)岡崎

高校まで先輩で、社会人になって「同期」というのは世の中によくありますよね。

登山さんは結構変わっていて、日本エアシステム(JAS)に入社してJASと日本航空(JAL)が合併してJALになった方です。

C.登山

昭和39年(1964年)生まれ、54歳です。両親が奄美大島出身で、子供のころから両親の帰省の際によくYS-11に乗って鹿児島から奄美大島まで飛行機に乗っていました。美しい海と景色を眺められて、漫然と「パイロットになれたらいいな」と思っていました。   

高3の時担任だった石部先生(生物)に運輸省航空大学校を受けたいと相談すると、「君、体小さいし学力も不足している。受験するならもっと頑張りなさい。」(笑)…「しかし夢を持つことはとても良いことだ。」と励ましてくださったのです。石部先生には大変感謝しております。結果的には高卒時は受験せずに一般大学に入学しました。

しかし大学に行っているときに幸か不幸か航空大学校の入試制度が変わり、短大卒以上で受験ができると知ったのです。高校当時から比べれば体も大きくなっていたので、大卒時に航空大学校を受験し 1988 年に入学しました。1990 年に航大卒業と同時に日本エアシステム (JAS)に入社しております。     

JASではDC-9-41の操縦に係わり、DC-9-81を乗った後に、大分空港にあったJAS応用訓練所のビーチクラフト200(スーパーキングエア)の教官の辞令をもらい、大分県に2年ほど住んでおりました。教官を終えて東京に戻り、マクドネル・ダグラス MD-81 、MD-87、MD-90と乗り継いだとき、2004年にJASとJALが合併したのです。JALの訓練審査企画室で村松(弟)さんと一緒に仕事したこともありました。 2012年にJALのグループ航空会社、ジェイエア(J-AIR)への出向を命じられて大阪に出向き、6年間エンブラエル(ブラジル製ジェット旅客機)E170,E190に乗ったところで帰任命令が出て今年JALに戻ったところです。ジェイエア(J-AIR)のほうでは正社員の機長も副操縦士も昇格訓練中のパイロット数が大変多く、現地では教官として訓練フライトの日々でした。JALに戻るとき再び機長認定審査(JCABチェック)※9を受け、2018年9月にボーイング737の機長として乗務を始めたばかりです。

※9 J-AIRはJALとは別会社扱いとなり、出向時も帰任時も国土交通省航空局(JCAB)の機長認定審査(チェック)を受験し合格しなければならない。                                                   

村松敬哲(弟)

私がパイロットになろうと思ったのはかなり遅かったです。大学は経営学部だったのでビジネスマンになるつもりで、在学中にアメリカに留学しました。そのころ兄はカリフォルニア州のナパで黒野先輩たちと訓練中だったので遊びに行くと、パイロットってかっこいいな、と思ってしまったのです。帰国後パイロットになるにはどうしたらいいのかと探したところ航空大学校があり、1990年に受験しました。私は文系でしたので数学の試験に苦戦しましたが何とか入学できました。                                        

兄とは城北で同じ水泳部[水球部]で宮川先生の元で教わっており、就職先もまた同じ日本航空(JAL)にするのはどうかと思いましたが、海外に行ってみたかったので、当時国際線就航数の多いJALに入ろうと思いました。配属は国際線で良く飛んでおりましたが、2010年よりボーイング737でフライト教官として主に国内線の運航をしています。                                   

司会)岡崎

お兄さんがパイロットになるとき親御さんは心配されたと聞いたのですが、弟さんの時は反対されなかったのですか?                   

村松(弟)

2人ともパイロットになったってしょうがないだろうと私の時も親に反対され「地に足の着いた仕事をしろ」とまで言われましたが最後はしょうがないと許されました。

木村元彦

昭和45年[1970年]生まれ、48歳です。全日本空輸(ANA)におりますが、城北出身のパイロットが何人かいるので座談会に来ないかと声をかけましたが都合がつかず私だけになりました。先ほど薬師さんが米倉さんと森川さんがANAにいらっしゃると伺いましたが、私の年齢に近い人だと、同学年に2名、一つ下の学年に1名、近い先輩に1名の計5名城北OBのANAのパイロットがいます。私は在学中水泳部[水球部]でした。昔からパイロットには思い入れが薄く、なろうとは思わなかったので文系で経済学部の大学に一浪して入りました。大学3年生の時同窓会があり、既に4年生になって航空会社の入社試験を受けた人がおり、「一般大学からでも入社して自社養成でパイロットになれるよ」と教えてくれて盛り上がりました。私が就職活動をした1992年は既にバブルが崩壊しており、どこの会社も採用人数を絞っていたのです。そこで入れるものなら受けるだけ受けてみよう、チャンスがあるならと一般企業と併せてANAに応募しました。他の皆さんと比較してどうしてもパイロットになりたい、というよりは何となく楽しそうだなといった程度の動機だったのですが、合格し入社することとなりました。親が山口県出身だったので、大学時代から飛行機に乗って帰省しており、飛行機に対しては違和感がなかったです。景気が悪くなっており入社してから1年半ほど地上職に就き、それからアメリカに渡って訓練を2年間やり、その後2000年にエアバスの副操縦士となり、2007年にボーイング777に移って現在機長をしております。

木村尚史(なおふみ)

木村元彦さんの一つ下の学年の昭和46年(1971年)12月生まれで47歳になります。高校時代は硬式テニス部で黒野さんの後輩です。一般大学に通いました。就職活動を始めた4年の春ごろ、友達の友達が日本エアシステム(JAS)のパイロットの自社養成の内定をもらったと聞きました。その時「パイロットはかっこいいな、そういう道もあるのか」と思い、4年の夏休みから航空大学校対策をして受験、合格して入りました。大学は1993年入学の41期生です。1996年の卒業時は、行きたい航空会社に希望を出すのではなく、5社全部の面接を受けて、受かったところに行くという制度で、日本航空(JAL)に受かっていくことになりました。JALでファースト・オフィサー(副操縦士)昇格訓練やっているときにたまたま黒野さんのフライトでオブザーブ(見学)をやることになり、コックピットで「君は城北のテニス部出身なんだって?」といきなり言われて初めて城北テニス部のOBの方であることを知りました。その後村松さんも先輩でいらっしゃると知って、この2人から誘われたら断れないので今日参加してます(笑)。今は機長としてボーイング787を操縦しています。

司会)岡崎

藤原君はこの中では一番若い。在学中はラグビー部だったね。今は琉球エアーコミューターにいらっしゃる。                                  

藤原雄滋

平成2年(1990年)生まれの28歳です。パイロットになったきっかけより前にまず城北に入ったきっかけから話します。父が城北生で卒業後こちらで教員をしています。男兄弟4人ですが、3人の弟とともに4人全員城北です。一番末の弟は今高校3年生で、この会議室の上の教室で授業を受けています。                                              

昔から漠然と電車、船、飛行機が好きで、そのいずれかに乗って仕事をしたいと思っていました。大学進学のときに専門的な大学に進む道もありましたが、どれか一つに絞ってしまうと逃げ場がなくなってしまうと考え、普通の大学で学部卒の資格を取ろうと思ったのです。そこで東京理科大学に進学し、大学4年の時に就職活動と並行して航空大学校を受験して受かり、卒業後行くことにしました。私が東京理科大学1年になった翌年の2010年1月に日本航空(JAL)が倒産しました。

航空大学を卒業する2015年ころにはJALの採用も回復しているだろうと思っていましたが回復せずにいて、同期のほとんどは全日空(ANA)に行ったのです。半年間就職活動して琉球エアーコミューター(RAC)に入れましたが、採用が決まるまでの間が人生で一番つらかったです。今は副操縦士になって2年目、まだまだ飛行時間が足りない中、機長昇格に向けて一歩一歩進んでいこうと思っています。                   

司会)岡崎

村松さんの兄弟と木村元彦さんは城北で水泳部[水球部]でしたね、ここにいる9人中3人が水泳部[水球部]と多いのは、当時顧問の宮川先生が「パイロットになれ」と強く言ったのでしょうか?     

村松(兄)

いえいえそんなことはないですよ。私は水泳部[水球部]の中で初めての理科系でした。高校時代は目の前にある部活と勉強で精一杯でしたから。

司会)岡崎

私は地上職としてパイロットを見ていると、人の命を預かるし、自分の健康管理、精神管理も大変だし、辛いことも多いと思う。その反面楽しいこともあると思うのですがそのあたりどうですか。 

黒野

日本航空(JAL)では、カリフォルニア州のナパに訓練で行くときに片道だけではなく帰りの航空券も渡されるのです。同じ試験を2回落ちると、翌々日には東京に強制的に帰される決まりがあるため、帰りの航空券も机の引き出しに入れています。

自社養成の最初のクラスが11人の中で3人、次のコースは10人で2人帰されましたが、3番目である私たちのコースは全員無事でした。

私が入社した1987年にJALは完全民営化され、当時の入社組は「新人類」といわれていました。桶川の本田航空で適性検査を受けたとき、試験以外の時間はフリーであったのでラウンジで村松らとマージャンやっていました。あとから聞いた話ですが、「採用試験の最中にマージャンやっているとんでもない奴らがいる」と採用担当の中で話題となり、次のコースからは悪い印象を持たれるから「ここでマージャンなどをやらないように」とお触れが出たらしいです。

ナパで訓練中の試験は、自分の技量が合格点に到達する前の段階で受けさせられるので、受かるか受からないか不安の中で過ごすのは辛かったですね。 楽しいことでいうと、地上職の人と違ってパイロットはある程度自由に年休が取れるので、プライベートを充実させることができます。飛行中は同じ状況などなく、操縦はあらゆる変化に対応する必要がありますが、充実感が持てる仕事でもあり、上空からの素晴らしい眺めも楽しめる仕事です。

木村元彦

辛いことと言えばやはり身体検査と技能審査の頻度が多いこと。半年に1回だったり、ちょいちょい受けなくてはならないのは辛いものです。楽しいことと言えるのは達成感の共有があること。基本的にはA地点からB地点に無事に安全に定時に着くという事ですが、この目的を成し遂げたとき、アスリートと同様にパイロット同士で共通した達成感が毎回得られることでしょうね。                                                 

藤原

隣にいるベテランの機長と仕事ができることが楽しく、勉強になりますしまた感謝しています。私の同級生で営業などしている人に聞くと、私ぐらいの若い年齢のものが部長クラスの人に円熟の営業の仕方を同行しながら見たり、おいそれと尋ねて教わることはないといいます。パイロットはチームワークが大切。機長は丁寧に教えてくれるので、自分が成長できる環境にあります。そこでの人とのつながりが感じられ、さらに達成感が味わえる点が面白いですね。                                                 

薬師

自分は転職が多かったので、ほぼ日本の飛行場は網羅しています。行っていないのは南鳥島空港など限られています。上空から見る景色が最高なのが楽しいところ。辛いところは、年を取ってくると経験が上がってくが体力(老眼等)が落ちてきて、両方ともバランスよく揃うという事がなかなかなく、難しい日々です。退職するまで無事故でいられるかどうかドキドキですね。仕事としては離陸して着陸するという1話完結なので、その中で教わることは多いです。65歳の機長と25歳の副操縦士という組合せというのはあり得ます。おじいさんと孫くらいの年齢差の人が一緒に仕事できる職場というのはいいですね。あと、兄弟パイロットであったり親子パイロットであったり、おじいいさん、お父さん、お子さんと3代続いていたりするケースもあります。親のやった仕事を子がやってくれるのは魅力ではないでしょうか。

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