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報告

2020年3月3日(火)

JICA経験同窓生:阿部哲史さん[1983年・昭和58年卒 第35回生]座談会/業種別ネットワーク推進委員会​(#01)

#02に続く ≫

#01 ・ #02 ・ #03 ・ #04

―阿部 哲史(あべ てつし)氏プロフィールー

1964年(昭和39年)生まれ 埼玉県朝霞市出身

剣道教士7段 ルーマニア人の妻と3人の子と共にハンガリーのブダペスト市に在住

  • 1988年(昭和63年)国際武道大学体育学部卒
  • 1991年(平成3年)筑波大学大学院修士課程(武道学)
  • 1992年(平成4年)~95年(平成7年) 28歳にして青年海外協力隊員として初の東欧、そして初の剣道コーチとしてハンガリーに派遣される。
  • 1995年(平成7年)~98年(平成10年)ハンガリー国立べスプレム大学(現パンノニア大学)教員養成学部体育科助教授兼ハンガリー剣道連盟代表チーム監督
  • 1998年(平成10年)~2016年(平成28年)ゲイト・オブ・ダルマ ブタペスト仏教単科大学日本文化コース常勤講師兼ハンガリー剣道連盟代表チーム監督
  • 2006年(平成18年)よりハンガリー剣道連盟技術局長兼代表チーム監督
  • 2012年(平成24年)の剣道世界大会、2015年の(平成27年)同大会において団体戦3位入賞
  • 2018年(平成30年)国際武道大学特任准教授、ハンガリー国立体育大学に出向中

 はじめに

1:司会と対談者は以下同窓会常任幹事会役員(敬称略)

司会:副会長 内野大三郎(第41回生)

対談者1:書記兼業種別ネットワーク推進委員会委員長 小藤田雅俊(第19回生)

対談者2:副会長 宮川正人 (第18回生)※阿部氏の在校中の体育の教師

対談者3:城北学園教諭 藤原鉄哉(第35回生)※阿部氏とは中学・高校6年間同窓

2:年数は取材時の2019年(令和元年)11月現在のもの

3:青年海外協力隊はシニア海外協力隊とともにJICA=独立行政法人国際協力機構=の一組織である。

本文中阿部氏は青年海外協力隊員と表記し、文脈によりJICAと使い分けることにした。―HP責任者―

↑左から小藤田委員長、宮川副会長、阿部氏、藤原教諭、内野副会長

内野:阿部哲史さん、お忙しいところ有難うございます。この度の対談者は3名になります。まず、阿部さんの在校中体育の教師でいらっしゃった第18回生宮川正人先生、お二人目が阿部さんと中・高校時代同級生でいらして、現在城北学園の数学科の教師をされておいでの第35回生藤原鉄哉先生、3人目は今回の対談の主催である業種別ネットワーク推進委員会委員長の第19回生小藤田雅俊さん、そして司会は私、同窓会副会長、第41回生内野大三郎で座談会を進めて参ります。

ダイジェスト1 「中学・高校在学中の生活」

まずは阿部さんに中学・高校在学中の生活について簡単に紹介して頂けますか。

阿部:阿部です。宜しくお願い致します。私は32年前の1977年(昭和52年)に城北中学に入学しました。私たちの学年は、2つ上の代まで中入生は高校進学の時に高入生とシャッフルされていたのですが、一つ上の代から新しく一貫クラス体制を試みたことで高入生とは混じらず、中高6年間2クラス96名で卒業までずっと一緒でした。新しい6年間一貫教育の模索期でもあり、先生方には随分とエネルギーが感じられ、また愛情をかけてもらったと思います。生徒は勉強もできていて、それでスポーツも盛んでした。

私は小学3年生の時に中板橋の道場で剣道を習い始めましたが、そこで指導いただいた稲垣公裕という先生が城北剣道部のOBの方でした。この稲垣先生に連れられて城北の剣道場に稽古に行ったこともがありまして、その時に丸山先生に初めて会いました。以来、城北の剣道部に憧れ、城北で剣道をしたくて中学を受験しました。

入学した時の担任は数学科の加藤健治先生です。中学3年間と高校1年までの4年間お世話になり、高校2年と3年は国語科の渡辺修先生が担任で国語と古文を教わりました。加藤先生は私たちが卒業した後、1997年(平成9年)から校長をなさりましたが、残念ながらこの10月(※)にお亡くなりになりました。――※HP責任者注 加藤健治6代目元校長は2019年10月24日に逝去されました。

内野:今、剣道部に入りたくて城北に入ったというぐらい熱の入れようだったと伺いましたが、実は私も水球をやりたくて城北に入ったのですよ。その時の城北の部活動の独特の雰囲気は共有できますね。

阿部:私、国際武道大学4年の時に城北に教育実習で来ました。短い期間でしたけれど、その時に受け持ったのは宮川先生が担任された高2のクラスでして、そこに内野さんがいました。私が教えたこと覚えていますか?

内野:ええっ!あの時教育実習でいらしたのは阿部さんだったのですか!?全く覚えておらず大変失礼いたしました。

阿部:いやいや無理もありません、随分前の事ですから。在校中の剣道部の話に戻りますが、当時の大会は、都大会になると200校以上が出場する大きなものでした。関東大会の出場枠は10あり、トップは国士館や早稲田実業あたりがしのぎを削っていて、城北はそのすぐ下のベスト8の常連といった具合でした。ですから、レベルはそれなりに高かったと思います。

藤原:高校3年の時いい成績修めたのでしたね。

阿部:ええ、私が主将をしていた1982年(昭和57年)、春の関東大会予選を兼ねた東京都大会で14年ぶりに団体優勝しました。表彰式の後、80名の部員全員で城北剣道部の部歌を大会会場の真ん中で高らかに歌った記憶は今でも鮮やかに残っています。残念ながら城北の都大会優勝はこれが最後です。

↑1982年(昭和57年)、高3の時の夏合宿にて(後列中央首からメダル)

内野:すそ野が広い剣道で東京都大会優勝するなんてかなりレベルは高いですね。

阿部:はい、確かに。当時の城北剣道部は、伝統校の強みを持っていたんだと思います。丸山先生に教わりたくて城北に入ったと申しましたが、私たちよりずっと前の時代は東京代表でインターハイや国体に何度も出場しています。古いOBに言わせると若かりし頃の丸山先生はそれは厳しかったそうですが、私たちの頃になると経験を積まれ、達観とでもいうのでしょうか、生徒主体で自由にやらせてもらっていました。他の強豪校は長時間稽古でしかもスパルタ式なのに対し、比して城北は1日1時間半のみ。しかも週に5日の稽古しかしておらず、短期集中型に徹していました。

内野:泊り合宿などありましたか。

阿部:ありました。春と夏学校の道場に寝泊まりして稽古していました。今思うとそこらの大学の剣道部よりよっぽど厳しい合宿をやっていたと思います。

宮川:今、丸山先生の若い時の話題が出ましたが、私も中学のとき丸山先生に教わりました。先生は高校1年生の学年主任を長いことなさっていながら体育主任もなさり、さらに生活指導もされるという、学内では要(かなめ)の人でした。ですから当時の生徒には丸山先生と言えば剣道という印象よりむしろ生活指導で恐れられた存在でしたね。一方で剣道部員は日本一を狙ってインターハイに行った時代でしたから、丸山先生の名声っていうのは学内外で長いこと残っていましたよ。

小藤田:私は柔道部でしたが仲いい友人が剣道部にいたものですから丸山先生の怖さは聞いていますよ。あの当時は中庭を挟んで渡り廊下で剣道道と柔道場が分かれていたと思うのですが。

阿部:私は古い剣道場では稽古していませんでしたが、中学校1年生の半ばまでは取り壊す寸前の状態で残っていたのでしっかり覚えています。

小藤田:あの頃私の同級生の剣道部員のいでたちは上が紺色、下は白袴でしたけれど、あれは城北のユニフォームですか?

阿部:はい、レギュラー用のユニフォームです。上が紺で下が白というのは珍しく、私たちはすごく誇りに思っていました。選手になってあのいでたちで試合に出ることがひとつのステイタスでした。僕らのずっと前の時代は全国でも「関東の白袴」と異名をとっていたそうです。残念なことに今は黒袴を使っているらしいですが・・・。

小藤田:あの姿は結構カッコ良かったですよね。

↑1982年(昭和57年)東京都大会で14年ぶりに団体優勝(前列中央)、「関東の白袴」のいでたちで

 

内野:在学中の思い出ではどんなものがありますか。

阿部:城北のいろいろな科目の先生方に教わったことが社会に出てすごく役立っています。私の場合、外国に出たので特に強く感じる部分があります。例えば、音楽の笹倉先生。中学最初の授業で、「膝を閉じて背筋を伸ばせ。頭のてっぺんと尻の穴を一直線にしろ」とまずは座る姿勢からしつこく指導されました。45分間ずっとその姿勢ですから苦しかったです。それから、「学生服を脱ぐときは外側を汚してはならい、だから脱いだら内側を表にして椅子などにかけるものだ」とか。私はヨーロッパに移り住んでからも笹倉先生に教わったまま振舞うように努めていますが、ある会議に出た際にスーツの裏地を表にする私を見た知人が、「へえ、日本人だけどちゃんとしたマナーを知ってるんだね」と言われたことがあります。些細なことですが、笹倉先生は中学生の私たちにも国際社会で通用するマナーの基本を指導くださっていたのです。今も本当にありがたく感じています。

藤原:笹倉先生が招待した音楽家が講堂で演奏した音楽鑑賞会も良かったですよね。

阿部:そうそう、よく覚えています。中学校2年生の時は、当時世界的にも有名だった東ドイツ出身のアンネローゼ・シュミットさんを招待してピアノ演奏会をやって頂きました。1978年(昭和53年)当時ですから、社会主義圏の東ドイツの演奏家を一私立学校が招くという事は非常に特殊なことだったと思います。そういう本格的な音楽鑑賞会を毎年、定期的に企画されていたのが笹倉先生でした。

宮川:私も中学の時の担任が笹倉先生でした。途中で城北埼玉高校に行かれましたけど。

阿部:音楽科ではもうお一人、佐藤武久先生も印象的でした。加藤健治先生の副担任でしたが、ある時どなたかの代行授業で佐藤先生がいらして、「今日のこの時間では君たちの話が聞きたい。一人ずつ前に出てきて将来の夢を語ってください」と仰いました。50名がそれぞれ色々な夢を語ったわけですが、ほとんどの同級生は、「有名な大学や大企業に入る」とか「金持ちになる」という話をしたんです。そして全員が発表し終わった後に佐藤先生は静かに立ち上がると、「バカ野郎、お前らはなんてケツの穴の小さい連中だ!」と叫ばれたんです。「なぜ、ロケットで火星に行きたいとか、総理大臣になるんだとかそういう夢を持てないのだ」と続けざまに。中学2年の私にはかなりショックで、「そうだなぁ、ちんけな夢しか語っていなかったな、俺たち」と恥じた記憶があります。時代が今とは違いますが、当時の城北には佐藤先生のように「大志を持っているのか!」という問いかけをダイレクトに生徒めがけて投げかけてくださる先生方が何人もいらっしゃったと思います。

藤原:私は何を言ったかその時のことを覚えてないです。

阿部:何か一つの道を究めるという意味では、書道の黒住先生からも多くを学びました。高1の時の授業で半紙に1本の線を書いたものを2枚、高々と皆の前に差し出して「右の線と左の線、違いが分かるかい」と独特の口調で問われました。すると「こっちの方が曲がっていま~す」などと誰かが応えるわけですが、黒住先生は「質を見抜きなさい。はたから見れば両方とも似たような線。でも、同じように見えながらどちらに芯が通っているのか、違いがある。そういう質を見抜く目を磨きなさい」という導入で授業にはいっていきました。私は思わず「剣道とまったく同じ世界だな」と感動したのを覚えています。主要教科以外で、例えば工芸の町田先生や美術の小泉先生など、それから体育でもそうでしたが個々の専門分野で優秀な、それでいてユニークな先生が何人もいらっしゃったと思います。その専門性の高い教育、それが当時の城北の強みのひとつだったのかなとこの年になって強く思うことがあります。

藤原:そういえば以前、高校の時に教わった古文が「役に立った」って言っていませんでしたか?

阿部:正確にいうと「救われた」ですね。2000年(平成12年)前後でしたか、神戸学院大学で身体運動文化学会という国際学会が開催され、私はハンガリーから招聘されたパネラーの通訳兼世話役として参加しました。その大会前日にあった打合せ会で主催者側の一人の教授が、「あなたハンガリーからですね。大学は須磨にありますが、須磨ってご存知ですか?」と妙な質問をしてきたんです。恥ずかしながら就学旅行以外で関西に足を踏み入れたことのなかった私は答えに窮したのですが、その時、ふと渡辺修先生の古文の授業で源氏物語の須磨の巻を読まされたことを思い出したんです。それで、「光源氏が都にいられなくなって須磨の地に雲隠れする、あの須磨ですね」と返したら、その教授はびっくり。おそらく教授は私のことを体育系の筋肉脳みその持ち主で、しかも何年も外国にいるので何も知らないだろうくらいに思って質問したのかもしれませんが、そしたら源氏物語が出てきてしまったわけです。その後、教授とは酒席で随分と話をしましたが、「君の古文の先生は実に素晴らしい教育を施してくれましたね。物語を読ませるだけはなく、地名を聞くだけで源氏が脳裏に浮かぶ。高校の授業としては実に立派です」と褒めてくれたんです。その時に私はまるで自分が褒められたように素直に喜んでいましたが、実は、古文は大の苦手で渡辺先生にはいつも叱られていました。ですから、この話を渡辺先生にしたことはありません。「お前、その他に何を知ってんだ!」とか突っ込まれるのが怖いもので・・・。

筑波大学の大学院時代、体育系ではありますが戦国時代から江戸時代末期頃までの近世の剣術や柔術の伝書を読み込む武芸思想史研究が私の専門領域でした。入江康平という弓道を専門とする指導教授は、全国各地の図書館でまだ発見されてない古文書を探し出し、古文書辞典を参考に一文字ずつ調べてまとめるというような作業をする方でした。当然私も古文書を読まされるわけで、何を間違ってそういう研究分野に足を突っ込んでしまったのかは別として、「高校時代になんで渡辺先生にもっと真剣に古典を教わらなかったのか・・・」と後悔ばかりしていたことを思い出します。

内野:剣道一筋にやりたいという阿部さんの夢を身近でバックアップしてくれたご家庭はどのような環境でしたか?

阿部:私の母は板橋と練馬で小学校の教員をしておりました。父は今年亡くなりましたが、ずっと剣道を指導しており、死ぬまで剣道の話題が途切れたことはありません。また親といえば丸山先生も親同様の存在でしたし、友人も水球をやっていた仲栄真君やバスケットをやっていた高村君、他にもスポーツクラブのリーダーが何人かいて、親とは違いますが色々な意味で私をバックアップしてくれていたと思います。

内野:剣道をできた環境も良かったうえに、学校の仲間にも恵まれたという事でしょうか。

阿部:はい、藤原先生もその大切な友人の一人ですが、中高6年間一緒に過ごした仲間には本当に恵まれたと思います。家で友人の話をする私をみて、両親も城北に進学したことを誰よりも喜んでいました。そして、「何をするにしても道を極めたいなら平凡になるな、その代わり苦労するよ」「やるからには日本一、世界一を目指しなさい」と繰り返していました。進学に関しても「やりたいことは好きにやりなさい」と一度も止められたことはありません。それにはつくづく感謝しています。

 

ダイジェスト2 「国際武道大学へ進学した動機」

内野:剣道が好きで丸山先生を慕って城北に入られて、在学中は剣道でそれなりの成績を残されたと思います。高3になってそれでは進学をどうするかとなったとき、できたばかりの国際武道大学に進まれた理由は何だったのでしょうか。

阿部:一流の剣道選手であれば、インターハイで活躍して強豪大学の剣道部から声が掛かるのですが、そこまで実績を上げられなかった私は当然、普通に受験をして大学に入らなければなりません。恩師の丸山先生は東京高等師範学校、今の筑波大学の出身でしたので私も筑波を目指して共通一次試験を受けました。しかし、結果は芳しくなく2次試験を断念しました。そして、慕っていた先輩が通っていた順天堂大学の体育学部を受けたのですが、なんとも恥ずかしいことに加藤先生に教わっていたはずの三角関数ができずにまさかの不合格。みごとに予期していなかった浪人生となってしまいました。私と同じくらい勉強ができないと思っていた仲良しの藤原先生は、さして勉強していた様子もありませんでしたがちゃっかり第一志望の埼玉大学に合格。多くの同級生が現役で大学に通い始めるなか、一人取り残され淋しい気分を味わいました。

藤原:やることやっていれば合格(うか)るものです。

阿部:とはいえ、城北の同級生のなかで珍しく体育系を目指す牧野君と同じ中央ゼミナールという予備校に通いながら、面白おかしい浪人生活を送りはじめました。牧野君は在校時少林寺拳法部にいたスポーツマンで、一浪して早稲田大学教育学部に進学して現在は都内の中学校校長をしています。

そんな浪人中の秋口、丸山先生に呼び出された私は次のようなことを言われました。「来年度、国際武道大学という武道指導者養成の専門大学ができる。私の先輩にあたる九段の小森園正雄さんが主任教授を勤める。本物の専門家を育てる学校だから受験したらどうか?そもそもお前は勉強が苦手じゃ、2浪するんじゃないかとわしゃ心配でたまらんしのぉ・・・」と言うのです。勉強のできが良くなかったとはいえ、仮にも進学校の城北で育った私にもプライドはあります。それもあって、「浪人までして、なぜ誰でも入れそうな新設校を受験しなければならないのか」と先生の話に耳を貸す気にもなりませんでした。しかし、将来を心配してくれる恩師の提案を無視することもできず、進学するかしないかは別としてとりあえず国際武道大学も受験することとしました。そして受験シーズンが始まりましたが、筑波大学は2次で不合格。幸いなことに三角関数を勉強した私は順天堂大学、それと国際武道大学には合格できました。当然ですがこの時、私の頭のなかでは順天堂大学に進学することになっていました。

小藤田:念願がかなったという事ですね。

阿部:そうですね、とりあえずは。でも順天堂大学には進学しませんでした。話が少しそれますが、私は剣道をする前に同じ中板橋で空手を習っていました。その時代には珍しく、そこには外国人も出入りをしていました。小学校3年生に剣道に転向しましたがカナダや台湾から外国人剣士がホームステイしに来たりと、幼少の頃から武道を志す外国人と接する機会に恵まれていました。そのため、「剣道を通して世界に羽ばたくことができるこれまでにない大学」として密かに国際武道大学には強い関心を持っていました。しかし、「浪人までして将来性も分からない、誰でも入れる新設校に進学するのは恰好悪い」とか、「剣道の専門性では武道大学に劣るが、体育教員になるためには順天堂で申し分ない」という考えに凝り固まっていました。ちなみに丸山先生は、「国際武道大学の先生はわしの先輩でのぉ・・・」と繰り返しおっしゃるだけで最終判断は私任せでした。

進学先を決めきれずにいたある日、私は稽古をするため城北に足を運びました。その時、偶然ですが学校手前に当時あった風呂屋の脇で英語科の高木修先生とばったり会ったのです。在学中、私は出来の悪い生徒の代表格ながら先生には3年ほど教わっていましたので、「阿部、お前は今何をしているのか?」と声をかけてもらいました。そこで立ち話になったのですが、私は浪人したこと。順天堂大学と国際武道大学の両方に受かったこと。そして、「剣道では強くなりたいが将来は体育教員にもなりたい。その夢を実現するためには、未知数の国際武道大学よりも知名度のある順天堂大学に進学した方が無難だ」という進学先の決定理由をもっともらしい顔をして述べました。しかも得意げに・・・。するとそれを静かに聞いた高木先生はいきなり、「やっぱりお前はバカだったな」と笑うんです。きょとんとしている私に続けて、「剣道の専門家になりたいと言いながら、どうして順天堂大学へ行くのかい?自分の信じる剣道を目指すなら指導陣のレベルが高い国際武道大学じゃないの。剣道に人生を賭けているようなことを言いながら、結局は剣道を信じ切れていない。専門性で勝負するもんだよ、世の中は。そんなことも分からないお前はやっぱりバカだな」と再度高笑し、さっさとその場を後にしてしまったんです。これは真面目に堪えました。なぜならば、高木先生の厳しいコメントが的を射ていたからに他なりません。自分の生き方、選択の仕方に自信を持ち切れていないこと。好きな剣道と心中するくらいの腹が決まっていないこと。新設校であることを理由に自分の本心をごまかしていること。そんな半端な自分の内面に気づかされました。その後、即座に国際武道大学に進学することを決めたのは言うまでもありません。もちろん、この話を聞いた丸山先生は、何も言わずにただ嬉しそうに頷いてくれました。もちろん両親は何も言いませんでした。

↑1985(昭和60年)年関東学生剣道大会で3位入賞した国際武道大学体育学部の仲間と(後列左から2人目)

宮川:本当に立ち話がきっかけで順天堂大学入学希望を国際武道大学にかえてしまったのですか!?

阿部:はい。本当の自分の本心に素直になることの大切さを高木先生に気づかされ、本当に良かったと今でも思っています。実はその6,7年後、ハンガリーに渡航する前に偶然ですが新幹線のなかで高木先生にお会いしたことがあります。「おお阿部、ビール買ってやるから一緒に飲もう」と名古屋から東京まで二人であれこれ話をしたんですが、進学先を決めたきっかけの話をしたら高木先生は、「えっ、俺がそんなこと言ったのか、ひどいな、そりゃぁ。でも今上手くいっているようだから良かった良かった、まあ、飲め」と。

内野:大学のコンセプトと自分のやりたい方針とがその時期に一致したのですね。それで大学在学中の4年間も剣道三昧でいらしたのですか?

阿部:今では定員も半分ほどですが、私が1期生で入学した国際武道大学には全国からツワモノが集まり、剣道部の同級生だけでも130名もいました。私は初年度に副主将を任命され、先輩がいなかったので4年間も務めました。毎年新入部員が100名以上入ってくるので最終学年の4年時には総勢500名にもなる、後先にも間違いなく世界で一番大きな剣道部だったんです。そういった環境では剣道以外にも随分と鍛えられましたし、もちろんのこと丸山先生の先輩である小森園教授の指導は厳しく、おかげで剣道家としての基礎固めがその4年で出来上がったと思います。

小藤田:すごい人数ですね!

阿部:在学中の2年生から3年生になる春休み、初めて海外に飛びだすチャンスが訪れました。その当時、早稲田大学で剣道を教えている安藤宏三という教授が早稲田、日体大、国士舘大など体育系大学の剣道部員に声をかけて、春休みを利用して西ドイツの剣道連盟の底上げをする協力活動をしていました。その教授が国際武道大学にも声を掛けてくださり、私を含めて国際武道大学から4人、1か月半にわたり当時の西ドイツの地方都市に滞在することになったのです。私が赴いたのはヨーロッパ第2の港町ハンブルクでした。剣道を習っている学生の家にホームステイしながらクラブ指導や大会審判を務め、日本ではできない経験をたくさん積むことができました。当時のドイツ剣道は今と比べると随分レベルは低かったのですが、日本文化として剣道に取り組むドイツ人のひたむきな姿を目の当たりにした私は、日本でだけ稽古しても理解することができない価値が海外の剣道にはいっぱいあることに気づかされました。言うまでもなく、この経験がきっかけとなって、「海外の愛好者と一緒に剣道の普及発展に関われないだろうか」、そんな漠然とした夢を本気で描くようになっていっていきました。ちなみに、その折、ドイツに一緒に渡航した国際武道大学の同級生の一人が現在城北で教員をしている門野先生です。

↑1986年(昭和61年)ドイツ剣道連盟合宿(右から3人目)/左から3人目が城北の現教諭 門野氏

藤原:阿部さんがドイツに行くのに成田空港まで送って欲しいと頼まれて私が車を運転して送って行ったのですけれど、1986年(昭和61年)の春は成田闘争というのがあって、過激派と警官隊が激しくぶつかっていた時期だったのです。警官隊に車を止められて車内を見せろというのでそうしたら竹刀があるっていうので過激派と間違われて警察署まで連行されてしまいました。

阿部:ははは、懐かしい、そういう時代でしたね。当時は航路も今と異なり、ロシアになる前のソビエト連邦の上空は飛べませんでした。ですから、まずアラスカのアンカレッジ空港まで飛び、そこから北極上空を飛んでパリまで。そこからドイツのフランクフルトを経由し、トータルで30時間以上かけて漸くハンブルクにたどり着くといった具合でした。

内野:そうした外国で剣道を教えるという進路を意識しながら残りの大学生活を過ごされたのですね。その結果として国際武道大学を卒業されてから筑波大学の大学院に進まれたのはどうしてですか。

阿部:4年生の時、大学を卒業したら即座にカナダに行こうと考えていました。ヨーロッパ圏も考えたのですが、何をどうしたらいいのかも分からず、兄が長期滞在していたこともあるカナダのバンクーバーを候補としたのです。そして、大学の進路相談でウキウキしながら小森園教授にそのことを告げると、「このバカが!お前ごときの、棒振りしかできない若造がカナダに来ても誰も喜ばぬわ。剣道の背景にある文化性も分かっていないお前が何を教える。ちょっと試合で勝ったぐらいでいい気になるな!」と手厳しく怒鳴られました。叱られることには慣れていますので気にもなりませんでしたが、小森園先生に指摘されたことが紛れもない事実であることがとても深刻でした。とにかく早く海外に飛び出したい。そのことばかりに囚われていて、自分が本当に何をしたいのか。それが社会にどう役立つのか。一体誰がそれを求めているか。夢といっても何も具体的な姿ができあがっていなかったのだと思います。ですから、まずは焦る気持ちを諫め、小森園教授が仰っていた武道文化の勉強をすることを考えはじめました。海外で通用するために理論武装するとでも言うのでしょうか、西ドイツでの経験が糧となり、その重要性だけは身をもって感じていたのだと思います。

内野:それでどうなさったのですか?

阿部:当時、武道の人文学的研究を本格的に手掛ける大学院は体育系ですと筑波大学武道学研究室だけでした。そのため国際武道大4年時に大学院の入試を受けましたが、予想以上にハードルが高く、大学受験同様にこれまた不合格。慣れた話なので気落ちはしませんでしたが、「さてどうしようか?」と大学から臨める海を眺めながらぼんやり考えていたら、「本当にやる気があるのなら、研究生として1年間大学に入らないか?」という誘いが武道学研究室から届いたのです。当然、私は小躍りしながらお世話になりたいと即答しました。後から分かったことですが、これは東京高等師範大学出身で顔の広かった小森園先生が陰で尽力してくださったことで持ち上がった話だったそうです。本当に有難いかぎりです。それで私は翌年、研究生として筑波大に移り、研究室のお手伝いをしながら自分の勉強を進め、改めて修士課程の試験を受けて大学院に入学することができました。

↑1991年(平成3年)筑波大学大学院 武道論研究室入江教授と

内野:進路を決めるたびにバカ者と呼ばれながらも素直に受け止めるのが良かったと思えますね。

大学院でなさったのが先ほどおっしゃられた近世の剣術・柔術の思想史研究という事でしたが、城北の在校時もそうでしょうが、割とやってきたことがあとあと役に立つというのはなかなかないですよ。役に立てられるという人が少ないとでも言えるのではないでしょうか。大学院までは自分で好きなことができたという事でしたが、それから後は自分で食べていかねばならないとなってどうされましたか。

阿部:私は将来、海外で剣道指導に携わりたいとう思いで大学院に進みましたが、周りの関係者はほとんどが日本の大学教員になることを目標に掲げて研究活動をしていました。ですから、あてもなく海外に出ることを夢見ていた私は明らかに異端でした。そうした環境のなかで知らぬうちに打算的な発想が脳裏を過るようになりました。つまり、夢は夢でしかなく、現実は食い扶持を探さないといけない。海外で剣道をするにもつてはないし、だったら日本にいて大学で教鞭を執るのも悪いくはない。一度就職してからでも改めて海外に出る方法もある。そんな風に考えるようになっていたのです。実際に当時、学園都市内にある茗渓学園という私立校で非常勤講師をしながら生計を立てていましたので、研究者として筑波大学に籍を残しつつ、高校や大学で非常勤講師をしながら喰いつなげばそのうち大学の就職先が見つかるかもしれないと。ドイツのハンブルグで人生の洗礼を受けてからすでに6年ちかい日々が過ぎ、夢が薄れかけていたのです。

 

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