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2020年3月3日(火)

JICA経験同窓生:阿部哲史さん[1983年・昭和58年卒 第35回生]座談会/業種別ネットワーク推進委員会​(#02)

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ダイジェスト3 「青年海外協力隊(JICA)に参加した経緯」

阿部:でも、世の中は本当に不思議なものです。諦める一歩手前でチャンスが訪れるのですね。大学院を修了した翌年の1991年(平成3年)、ハンガリーのブダペストにあるエロボシ・ローランド大学人文学部東洋文化研究コースの日本学科で、1970年代から教鞭をとる山地征典教授という方が1年間、筑波大学の武道学研究室に研究留学のためにいらしたのです。この方、82年にハンガリーで剣道を始めた張本人ですが、大学の剣道場で一緒に稽古したことがきっかけで知り合い、「阿部さん、海外志向ならハンガリーで剣道を教えてみませんか」と持ち掛けてくれたのです。可能であれば、ソ連のような日本人が誰もいない場所へ単身乗り込みたいと以前から妄想していたものですから、「ハンガリー?どこにあるかも良く知らないけど、ロシアと大差はないでしょ。二度と巡ってこないチャンスだ」とばかりに飛びつきました。山地教授の話では「ベルリンの壁が崩れたのが2年前の1989年(平成2年)で、社会主義からの体制変換中の現在、ハンガリーへの青年海外協力隊の派遣がはじまるかもしれません。外務省に上手に働きかければハンガリー剣道連盟の専属コーチとしての派遣も夢ではない」とのことでした。

小藤田:でも青年海外協力隊って開発途上国が主な派遣先ではないでしょうか?

阿部:その通りです。通常の青年海外協力隊はアフリカ、アジア、太平洋州、南米の発展途上国に、種まき、井戸掘り、自動車修理といった職種のボランティアを派遣するのが基本です。しかし、当時のハンガリーは実質的に途上国とはいえない生活水準を保っていましたので、従来の派遣ができる状況ではなかったのです。しかし、日本外務省とハンガリー文部科学省に相当する双方は、「それでも何かやりましょう」という合意に基づいてスポーツに関する人材派遣が検討されたのです。これが1990年のことです。ところが蓋を開けてみると、ハンガリーは戦前からスポーツ大国でして水球をはじめオリンピックの金メダル数は日本より多いのです。だから協力隊がこれまで途上国に派遣してきた種目のコーチ派遣では務まらないことが分かり、話がとん挫していた時だったのです。

小藤田:それでどうなったのですか。

阿部:実はこの山地教授、ハンガリー文部省関係の代表として以前から日本政府との協議にも参加していて、協力隊については、「従来とは少し路線を変えた、日本文化の交流を主眼においた派遣」を提唱していたのです。このあたりの経緯については、故米原真理さんが著した『魔女の1ダース』(新潮文庫)という本のエピローグに「ブタペストの日本人」と題して紹介されていますが、社会主義時代からハンガリーでは柔道や空手、合気道など日本武道は人気が高く、しかしながら本格的な指導者を受け入れることができていませんでした。山地教授は私からハンガリー行きの決意を確認した後、「筑波大出身の若い指導者がすでに手を挙げています。剣道隊員の派遣を実現させては?」と青年海外協力隊とハンガリーの教育文化省に改めて働きかけを始めてくれました。91年(平成3年)の秋のことです。

↑1992年(平成4年)山地先生(中)と父

 

小藤田:協力隊で初の旧社会主義圏の国に派遣の上、初の剣道隊員という、お初ずくめだったのですね。

阿部:そうですね。でも、簡単に派遣が実現したわけではありません。例えば柔道は五輪種目ですからハンガリーでも国立体育大学の必修科目になっています。したがって、協力隊側にとっても指導者を派遣する建前がはっきりしていることになります。しかし剣道は知名度も低く、競技者人口も少ない。そればかりかハンガリー剣道連盟自体も小さな任意団体に過ぎません。日本の外務省やJICAにすると、かぎりなく得体のしれない組織に税金を使った隊員を派遣することはかなりのリスクを背負うことになるわけです。実際、90年に当初に初めてハンガリー剣道連盟が隊員の派遣を要請した際には、見事に却下されてしまったと山地先生は説明してくれました。それもあって関係者は日本からコーチ招聘を半ば諦めていたのですが、ちょうどそこにノコノコと私が現れたというわけです。山地教授もこれは良いタイミングだと思ったそうで、無理を承知で協力隊の青年海外協力隊事務局長(以下、事務局長)という方に直談判を繰り返して派遣の意義を唱えたのです。

青木盛久さんという、当時外務省から出向で事務局長をされていた方がこの話のキーマンです。歴代事務局長のなかでは豪胆で、周りを驚嘆させるような発言をすることで有名だと後に聞かされましたが、この方が山地教授の情熱に心打たれ、内部では当然反対意見もあったようですが、一度却下したはずの剣道隊員のハンガリー派遣事業を改めて手掛ける約束をしてくださったのです。これが現在、JICAが世界で展開している剣道指導者の派遣事業の始まりです。

藤原:普通では考えられない話の展開だったのですね。

阿部:はい、青年海外協力隊にとっても東欧への派遣事業を開始する難しい時期でしたので、一種の賭けのようなものだったかもしれません。で、この青木事務局長、とても興味深いお方なのです。ひいおじいさまが青木周蔵さんといって司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも頻繁に登場しますが、日清日ロ戦争期に外務大臣を務めた方です。青木盛久さんが事務局長の時代に努めたことは、とにかく隊員が書いた報告書に目を通すこと。年間1,000名を超す隊員が派遣されますのでその量は半端ではありませんが、それによって外務省でも入手できない現場のリアルな情報に精通していることで有名でした。記憶力も抜群でして、途上国の最前線で苦悩しながら活躍する隊員の姿を日本国内で随分と広めて頂きました。そのため協力隊の隊員たちにとても慕われていたのです。外務省に戻った後はフジモリ大統領時代にペルー大使に任命されますが1996年(平成8年)、テロリストによる日本大使館を占拠する人質事件が起き、3か月以上にわたり人質になった体験をお持ちです。話を戻しますが、青木事務局長と山地教授、この二方の踏ん張りによって青年海外協力隊史上初の東欧隊員、初職種の剣道隊員として私はハンガリーに赴くことになりました。

 ↑1993年(平成5年) 青年海外協力隊としてハンガリーの剣道チームに指導

小藤田:感心してしまいますよ、そういう話。

阿部:私を第1号とするハンガリー剣道連盟への指導者の派遣は通算で15年間、人数にすると7名、EU加盟後の2007年(平成19年)まで続けられました。剣道指導者自体の派遣事業は、現在も他の開発途上国で継続的に実施されています。剣道指導者が派遣された国はすでに20ヶ国弱にもなり、総数で100名ちかくになります。国際剣道連盟は1970年(昭和45年)に17ヶ国が集まって結成されました。現在は60の加盟国で構成され未加盟国を加えると世界のおよそ80ヵ国において剣道が愛好されていますが、その4分の1は青年海外協力隊の剣道指導者が底上げをしていることになります。つまり、世界の剣道界にとって協力隊の指導者たちの存在は知られていませんが意外と大きいのです。剣道の指導者として世界を舞台に協力隊事業に参加できたことを私はなによりも誇りに感じていますが、活動を終えた今でも、もちろん個人的な関係になりますが青木元事務局長には時折、活動報告を続けています。また70代後半にさしかった山地教授は健在で今も週2回、ブタペストで一緒に稽古をしています。

小藤田:青年海外協力隊の任期は2年間ですが、その後どうするかという不安はなかったのでしょうか。

阿部:これだけ世間からズレた人生を歩んできましたので、生きていくことについて不安を感じたことはあまりありませんでした。協力隊に参加した後、「人間、その気になればどこでも、何をしてでも生きているだろう」という気持ちが強くなったのだと思います。

小藤田:本当にグッドタイミングだったのですね。

阿部:しかし、1992年(平成4年)にハンガリーに行ったら行ったで、聞いていた話と現場は様子が違っていて随分と苦労しました。150人いると聞かされていた愛好者は多く見積もっても50名ほど。ブタペストに4つあると言われたクラブも2つだけといった具合です。一番困ったのはハンガリー剣道連盟が費用負担することが条件となっていたアパートがなかったことでした。単に連盟にお金がないことが理由なのですが、不安な私が「じゃ、どこに泊まればいいのですか」と尋ねると、当時のハンガリー剣道連盟事務局長さんは私よりももっと不安そうな顔で、「俺にも分からない」という始末でした。そんな状況でしたから最初の2か月は剣道関係者の家を泊り歩き、その後は警備会社のアルバイトとして空き家に住まわせてもらう生活が続きました。やる気満々でやってきた私ですが、剣道指導をする以前に疲れ果てしまい半年のあいだに望みもしない10㎏の減量にも成功してしまいました。ハンガリーは12月になると日中で外気はマイナス5度、毎日雪がちらつくクリスマス前の綺麗なブタペストの街並みも私の心には和みませんでした。

↑1993年 教え子と

宮川:言葉は十分に通じたのですか?

阿部:当時はハンガリー語が話せなかったので、高木先生に鍛えられたいい加減な英語で通していました。でも、派遣隊員の受け入れもまともにできない剣道連盟に嫌気がさし、「どうせ長居はしないだろう」と考えていたのでハンガリー語を覚えようとはしなかったのです。派遣されてから半年くらい経った1993年(平成5年)1月、青木事務局長がロシアでの仕事のついでにハンガリーに立ち寄ってくれました。初派遣のわれわれの活動が気になったためですが、現場を覗いたら、なんと自ら新規開拓した剣道隊員の私が苦戦しているのを目の当たりにしてしまうわけです。そこで青木さんは即座に、「規定にこだわる必要なし。初派遣で問題が多いは当然だ。そのために予備予算を確保しているのだから、まずは隊員の生活を確保しなさい」と協力隊のコーディネーターに指示をだしてくれまして、おかげで資金のないハンガリー剣道連盟の代わりに青年海外協力隊の事務局が私の住居を確保してくれることになったのです。これは本当に助かりましたね。ですから、私も俄然やる気になってしまい、ここから活動が活発になっていきました。

小藤田:青木事務局長ってすごい方なのですね。

阿部:この当時のハンガリー剣道連盟は、所属クラブ数4に会員数でも100に満たない程度だったわけですが15年後の2007年(平成19年)には、クラブ数で20、会員数では500人を超えるほどにまで発展しました。ヨーロッパ剣道大会では、1999年(平成元年)に男子・女子・ジュニアの3部門で個人戦優勝。男子の団体では2002年(平成14年)に初めて王者フランスを破って優勝。女子個人では前人未到の4連覇もしています。さらに2012年と2015年には、2大会連続の世界大会で3位入賞にまで昇り詰めることができました。

青木事務局長のサポートがなければ、間違いなく私は活動を断念して帰国していたと思います。剣道指導者の派遣は92年のハンガリーを皮切りにポーランド、ルーマニア、ブルガリアと続き、後は南米や中米、現在も他地域へと展開していきましたが、仮にあの冬、ハンガリーでの派遣事業がとん挫していたら現在のように世界中に剣道が広まる展開には至っていなかったと、世界の現場を知る私は断言できます。それを考えると、世界剣道の隆盛は青木さんの尽力が何よりも大きかったことは明らかです。そして、これは剣道という枠を越えて世界のなかにおける日本人、日本文化理解という意味で大きな意味を持つと思っています。

藤原:阿部さんの弟子がまた道場を開いていると伺ったことがあります。また、ハンガリー人に雑巾がけひとつを教えるにも、慣習の異なる国では簡単ではなかったと聞きましたが?

阿部:ハンガリーは1989年(平成元年)まで社会主義国家でした。ネットもなかった時代ですから当然、自由主義国からの情報が閉ざされていました。つまり、日本の社会、文化、習慣についてはほとんど知らないわけです。私が派遣された1992(平成4年)はまだ民主化された後とはいえ、たったの2~3年しか経っていませんでした。ですから、政治体制や教育制度も変換中で、街には相変わらず物品はありませんでした。社会主義的な情勢とほとんど変わっていなかったのです。そこに日本から剣道を教えに来た指導者がいるというのは関係者にとって大きなニュースで、「これは面白い」と様々な経歴をもつ人々が通ってくるわけです。今でこそ偏りがなくなりましたが、当時は政府の高官や教員、芸術家といったインテリ層の入門者が多くいたことが意外でした。当然ですが技術的には素人なのですが、武道の文化的な背景を知りたがります。それが、自由主義国として開かれつつあるハンガリーの社会のなかでどのように活用できるのかと。つまり、剣道を通じて人生を豊かにしたいと試みに挑むハンガリー人のエネルギーが手に取るように強く感じられたことを思い出します。「ただの棒振り」ではなく、「われわれ東欧人の知らない神秘的な東洋文化が剣道のなかに、何かが潜んでいるのであろう」と期待して集まっているというわけです。

小藤田:でしたら、泥臭い雑巾がけだとかをよくやるようになりますね。

阿部:はい、当時のハンガリー人は旧社会主義政権のもとで教育を受けた人たちで、総じて西側の人たちよりスレていなかったと思います。ですから、やったことがないことでも必要性を理屈で納得できればとりあえずは文句を言わずにやりました。今でもそれは変わりません。しかし、神秘的な世界を求めて剣道を習おうと思ったらいきなり「雑巾がけ」をしなければならないわけで、しかもエリート階層の人たちですからかなりのショックだと思います。当然なかには、「雑巾がけするためにクラブの会費を払っているわけではない」という人もいますので、そういう時には、雑巾がけの動きが準備運動や伝統的な筋トレを兼ねているという説明をするようにしてきました。これは事実ですが、納得したくない人はいます。そういう際には、「自分が使う場所を自分で掃除することで精神的にも場所に対して愛着がわくようになり、技術向上にもいい影響を及ぼす」といった回りくどい説明をしたこともあります。これも決して嘘ではありません。少なくとも日本人であれば、言いたいことも理解していただけると思います。ところが、文化基盤が全然違う東欧、しかも社会主義時代に宗教を否定してきた国の人々ですから、こういった宗教色の色濃い日本的な発想自体がまったく通用しないこともあります。「雑巾で掃除することと、剣道が上手になること、どこに関係があるんだよ?モップでやるのとどう違うのか?」と。こうなるともう何を言っても無駄なので、ボロ雑巾のようにヘトヘトになるまで厳しい稽古をしてもらい、「どうですか?元は取れましたか」と聞き返すようにしています。

↑1993年、赴任後に発足したブタペストの小学校クラブでの雑巾がけ

内野:具体的な仕事の内容はJICAが指定してくるのですか?

阿部:大枠はそうですが、現場を見てすべきことを探し出すのも隊員の役目です。私の場合、書類に記された任務は、「ハンガリー剣道連盟の会員に体系的に剣道の技術を指導すること」でした。体系的ということは、技術の背景にある文化的な要素も含みますので、広い意味でとらえれば剣道文化をハンガリー人に知ってもらう、そして剣道連盟を発展させることだと私は理解しました。技術指導するのが主な目的ではありますが、実際にそれだけやっていてもハンガリーの剣道人口が増え、国際大会で競技成績が上がるわけではありません。技術の周辺にある剣道と関連性のある環境をと整えないと技術も本当に伸びませんし、組織自体も発展していきません。ですから、剣道連盟のデスクワークもしましたし、行事の企画運営にも首を突っ込まなければなりませんでした。剣道はオリンピック種目ではありませんから、連盟は政府からはほとんど活動支援を受けることができません。しかし、相手は剣道の存在すら知らない人ばかりですから、一般人に剣道紹介する活動も欠かせません。その場合は、客寄せパンダとして私が先陣を切って各地でデモンストレーションもしました。例えば真夏のプールサイド、冬のアスファルトの上、ささくれだらけの野外劇場の舞台など、どこであろうと雄叫びをあげながら竹刀を振り回した時代が懐かしいです。乱暴な言い方をするのであればチンドン屋ですね。水着姿で、プールサイドの芝生に寝そべってアイスクリームを舐める観客の前で剣道デモをするのは決して気持ち良いものではありません。「俺はこんな連中に剣道を見せるために大学院にまで進学したわけじゃないんだけど・・・」という疑問が湧いたことも数えきれませんでした。

内野:それを全部一人でやるという事は、企画から広報からイベントの仕込みから実演までをすべて任されたという事ですかね。

↑1993年(平成5年) デモンストレーション風景

阿部:最近は連盟の若いメンバーに任せていますが、隊員時代は全部やっていました。もちろん、一人で剣道はできませんのでアシスタントのハンガリー人を従えてやります。デモンストレーションで困るのは、主催者側の横柄な態度でしょうか。「剣道を皆の前で披露させてやる!」というスタンスで話をもってきますので当然、それにかかる費用など払う気はありません。しかし、移動や食事など最低限の費用はかかりますので、必要となればデモを企画する主催者と費用負担についての交渉をしたり、自腹も切りました。最悪の場合、ハンガリー剣道連盟が費用負担するべきなんですが、私の住居も確保できない組織でしたからそれすらもできないわけです。そもそも私が赴任した当時、剣道連盟には会員証もなければ会員名簿もなく、つまり連盟の予算自体がないほどだったんです。そう、ただの剣道愛好者の集まりにすぎなかったということです。ですから1991年(平成3年)に青年海外協力隊が派遣を拒んだことも納得がいきます。ちなみに、1997年(平成9年)に初めて連盟の会員証を作ったのは、私とアシスタントをしてくれていた学生です。

小藤田:2年間自腹を切って続けられたのですか?

阿部:ある程度まではできましたが、いつまでもできるわけではありません。「自助努力を促す」という表現を協力隊では好んで使いますが、私がいつまでも援助していたらハンガリー剣道連盟はいつになっても本当に意味で独立できません。ただ、防具は高級品なので本当に困りました。

宮川:それで防具はどうしたの?

阿部:92年当時、ハンガリー人は日本では考えられないような粗悪な用具を使って稽古をしていました。日本の全日本剣道連盟が中古の防具を集めて外国に寄贈する事業を手掛けていましたので、それを利用したこともあります。ただ、全世界の国を対象にしているのでハンガリーに順番が回ってくるには時間がかかります。そこで丸山先生に「廃棄処分される防具を何とか譲って頂けないでしょうか」と相談したところ、先生は使い古しの用具をまとめて寄贈してくださいました。おまけに、当時全日本剣道連盟の理事をされていらしたので、輸送費を日本の連盟負担になるよう取り計らってまでいただきました。一箱40㎏もする大型段ボールを18個、延べ720㎏分を無料で送っていただきました。

↑故 丸山鐵男先生/1981年(昭和56年)

宮川:いつ頃ですか?

阿部:1995-6年(平成7-8年)頃です。ですから、ハンガリーで未だに「私立城北」と刺繍のはいった剣道着をまとっている子供を見かけることがあります。大事な剣道用具ですから、20年以上にもなりますがちゃんと使っているんですね。確か2005年(平成17年)ごろ、この城北ネーム入りの防具を付けてクラブ員にデモンストレーションをさせていたら、偶然客席のなかから「あっ、これ、俺の母校だ!」という叫び声を聴いたことがあります。城北の卒業生が会社の駐在員としてブタペストに来ていたのです。

内野:水球部の後輩もハンガリーにいました。

阿部:はい、とある日系企業関係者の催した食事会に参加した際、色々なスポーツの話になったのですが、ハンガリーの強いスポーツである水球の話題になったのです。それで私は自慢げに、「同級生が水球でインターハイで活躍し、中央や専修とか大学にも引っこ抜かれて進学している」と話をしたところ、「ボクの卒業校もそうです」という人がいるわけです。で、よくよく話を聞いたらなんと城北の卒業生で、しかも彼は中学時代に水球部に所属していたりと。二人で大笑いしました。

↑1993年、小学校クラブのメンバーたち。この当時の子供とは未だに仲良くしている

小藤田:私はJICAに興味があって、定年後に海外で日本語の教師をしようと隊員募集にトライしましたが不採用になってしまいました。隊員は2年間生活を保障されると聞いていました。

阿部:JICAのケアは素晴らしいです。アメリカには平和部隊という青年海外協力隊のモデルとなったボランティア活動がありますが、JICAと違って現地手当などあまり保障されていないと聞きます。それに比べるとJICAは派遣期間中であれば現地の成人男子の平均給与並みの生活手当を支給し、活動終了後も社会復帰のためにとまとまった積立金を提供してくれますのでケアレベルは相当高いと思います。ただし、平和部隊の場合は、アメリカに帰国すると在外経験に興味を示す企業から引く手あまただと伺いました。協力隊の方は真逆とまではいかないまでも、厳しいものがあると思います。

小藤田:今でもでしょうか?

阿部:分野によって差があるはずですが、基本的には変わらないと思います。日本の社会が青年海外協力隊の活動をどう評価するか。この部分が変化しないかぎり、状況は変わらないのではないでしょうか。ですから、青年海外協力隊の活動を志しても、活動から離れた後のことを想定しておく必要はあると思います。少し厳しい言い方かもしれませんが、あくまでも自分のやりたいことを見つける。やりたいことのステップにする。そのくらいの気持ちで臨み、活動終了後までJICAにケアしてもらおうなんて初めから考えないことが賢明かと思います。とはいえ、国際的なレベルで社会貢献を本気で目指すのでれば、登竜門としては文句なしに相応しいでしょう。私は「剣道+青年海外協力隊」で人生ができあがった実例ですから断言します。

小藤田:期間が2年と短いですからね。でも日本でもんもんと働いているなら、JICAをステップにできるならした方がいいように思いますし、定職を持っていく人もいますよ。

阿部:そうですね。本職があり、それを途上国で生かすためにJICA派遣を利用する、それはそれで素晴らしいと思います。スポーツ分野でも定年退職した人材を派遣するシステムがあります。社会経験を有する指導者が現場に入ると若い人と比べてアイデアが豊富で忍耐力もありますし、予期せぬ事態へ対処方法も引き出しが多く、現地で重宝がられると思います。

 

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