報告
クラブOB会訪問②:グリークラブOB会「城北メンネルコール」幹事長 鈴木 能晴さん #1
【初めに】 城北学園は、旧制中学時代から数えて2020年11月1日に創立80周年を迎えました。 学園の歴史と同様に、長きに亘ってクラブOB会を営む会もあれば、歴史は浅くとも結束の固いOB会もあります。 また、クラブOB会の存在に気づかれていない年長のOBや、卒業して日の浅い若いOBなど、潜在的に関心をお持ちのクラブOBも多数存在すると推察しております。 この程、同窓会の広報・ホームページ委員会(以下委員会)は、クラブ活動の魅力や息づく伝統、輝かしい実績といった情報を、多くの会員に知っていただく取材企画を始めました。 委員会がクラブOB会長に話を伺って「記憶の掘り起こし」のお手伝いをし、その部活の歴史とエピソードを同窓会ホームページから発信することで、OBと現役生に再認識してもらう趣旨です。 これをきっかけにOB間、もしくは現役生との交流が活性化出来れば、当委員会として無尽の喜びです。 |
城北学園 グリークラブOB会「城北メンネルコール」インタビュー
取材者プロフィール
顧問・常任指揮者: 山口 祐二先生 1976年卒=合唱部OB第16期生
OB会幹事長: 鈴木 能晴さん 1986年卒=OB第26期生
OB会副幹事長(前幹事長): 中村 一歩さん 1992年卒=OB第32期生
OB会副幹事長: 菅野 啓一さん 1985年卒=OB第25期生
■城北学園グリークラブ(旧城北高等学校合唱団)の発足
山口先生:1945年(昭和20年)6月から1947年7月の間、音楽科に、校歌を作曲された市村(旧姓梨本)丈一先生がおられました。そのあとには、ピアノ科出身の先生などの専任教諭が続き、現在名誉指揮者でいらっしゃる笹倉強先生が、音楽の教員として赴任なされたのは1954年(昭和29年)の9月でした。そして4年後の1958年(昭和33年)8月に、笹倉先生が顧問になり合唱部が発足しております。
その年に、毎日新聞社主催、東京宝塚劇場の協力で開催された「野ばらコンクール」に、参加しようということになり、笹倉先生が、高1の音楽選択生徒の中から、コンクール参加希望者を募集して出場しました。結果は、参加4校中4位でした。その時のコンクール参加生徒が合唱を続けたいと申し出たことが、合唱部発足のきっかけになったと聞いております。
笹倉先生のご指導によって合唱のレベルが向上して、創部翌年の1959年(昭和34年)9月、 NHK 全国学校音楽コンクール(以降 「Nコン」)に初出場しました。果たして、いきなり東京都の地区優秀賞を受賞しています。続く10月の東京都合唱連盟合唱コンクールでは第5位入賞。翌年にも「Nコン」に出場し、創部2年目にして東京地方優秀賞を取る実力を持つようになっています。当時は歌声喫茶が流行っているような時代でしたから、合唱は大変人気がありました。また、フォークソングのブームも手伝って、創部10年くらいには、高校生だけで部員が70人もいた年もあると聞いています。
現在は部員の人数がすっかり減ってしまいました。また都内の高校でも、合唱部がある学校自体少なくなってきています。板橋区内の公立中学校では、20年ほど前には2校を残すのみとなっている状況です。
私が着任してから、そういう傾向にあっても、「Nコン」の東京都最優秀校の授賞など、コンクールや大会の成果を繋いできているつもりです。
■OB会発足
山口先生:合唱部が発足して8年後の1966年(昭和41年)6月29日に第1回の定期演奏会があり、それをきっかけに OB会が結成されました。以来、定期演奏会では、現役生とOBとが協力し合っています。ところで、発足当時の合唱部は「城北高等学校合唱団」と称しており、来年2023年(令和5年)は創団65年となります。また、OB会も発足57年目となります。
その第1回の演奏会には悲しい出来事が伝わっています。当時、合唱部の部長で高3の表(おもて)さんが中心になって練習を積んでいたのですが、演奏会1週間くらい前に校庭で倒れ、その後、演奏会を待たずに亡くなってしまいました(生徒会葬)。この時、演奏会をやる・やらないで部内は相当揉めたそうなのですが、表部長は、演奏会はどうしてもやってほしいと強い意思を持っていたことから、開催を決めたそうです。こうしたことで、1966年(昭和41年)の第1回定期演奏会は、追悼演奏会の意味合いを持っていたのではないかと想像できます。OB達も、表さんの意思を継いで、演奏会をなんとしてでも盛り立てようという意気込みがあったのではないでしょうか。
1961年(昭和36年)卒業の第1期OB達の発案で、OB会の呼称は笹倉先生にちなんで「笹の会」となりました。社会科教諭で、1965年(昭和40年)から1980年(昭和55年)まで合唱部の顧問をされた、磯部徳彦先生は、このOB第1期生です。その後、磯部先生は城北埼玉学園の学校長を務められました。また、元数学科教諭で、1962年卒業の夏目暢之先生は、在校時合唱部に入りたいと希望していたのに、人数がいっぱいで入れず、悔しい思いをされたとおっしゃっていました。母校に赴任したのち、2006年から2008年までグリークラブの顧問を務めて頂いております。さらに声を出すことへ思い入れのあった夏目先生は、PTA活動において「謡(うたい)の会」を立ち上げて、現在も続けられています。
ところで、OBの中にはオーケストラの指揮者も輩出しており、現在、1971年(昭和46年)卒業のOB会11期生の浮ケ谷孝夫さん、1980年(昭和55年)卒業のOB会20期の大勝秀也さんらが、国際的に活躍していらっしゃいます。また、声楽家をはじめ音楽関係者も少なくありません。
■OB 会「笹の会」と合唱部、双方の名称変更へ
山口先生:1981年(昭和56年)に笹倉先生が城北埼玉学園に転任されたのを機に、音楽科に着任した私が合唱部の顧問になりました。そして、3年目を過ぎた1984年(昭和59年)の「Nコン」において、私が東京都最優秀校へクラブを導いた翌年、笹倉先生がOB会の呼称である「笹の会」というのを改めましょうとおっしゃり、男声合唱をドイツ語読みにしたメンネルコール(男性=メンネル、合唱=コール)にちなんで、「城北メンネルコール」という呼び名に改めました。それに伴ない、現役生の合唱部も1986年(昭和61年)に、「城北高等学校合唱団」から「城北学園グリークラブ」と称するようになりました。
実は、1970年(昭和45年)に私は城北中学校に入学しましたが、その年の7月に、当時の合唱部は日本代表として、ロシア(当時ソ連)で開催された第9回国際音楽教育会議=ISMEモスクワ=の大舞台で合唱を披露しています。
その後、高校に進学して合唱部に入部しました。1973年(昭和48年)の9月に、「Nコン」で東京都最優秀校を受賞して、全国大会に出場しました。翌1974年(昭和49年)、高2の時にはその実力を評価されて、オーストラリアで開催された、第11回国際音楽教育会議=ISMEパース=に参加できました。そのメインプログラムにおいて、ソリストを任されたのですが、その感動は今でも忘れられません。
なお、城北メンネルコール(当時「笹の会」)のみの実績としても、1984年(昭和59年)6月に、アメリカ合衆国の第16回国際音楽教育会議=ISMEオレゴン=に参加し、合唱を披露しています。