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2024年8月28日(水)

同窓生列伝-2- ラグビー部 1957年(昭和32年)静岡国体 優勝 / 1958年(昭和33年)卒第10回生 土田 隆弘さん #1

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【始めに】

1941年創立の城北学園(創立当時は旧制中学)の、創立から6年目、新学制度になったばかりの1947年(昭和22年)にラグビー部は創部されました。2024年現在で77年の歴史を持ちます。

東京都の代表として国民体育大会[国体]、全国大会にそれぞれ2回出場しました。本列伝で紹介する1957年(昭和32年)10月の静岡国体ではBブロック優勝を果たしています。

現在、部のOB数は600名を超えており、増保 輝則さん(1990年卒第42回生)のような、日本代表キャップ47(国際試合に出場した回数)を持つ名プレーヤーも排出しています。

こうした伝統あるラグビー部で、国体優勝に貢献された土田 隆弘さん(1958年卒第10回生)に、当時の部活動の様子と、国体優勝について伺いました。

1957年、近藤薫明校長(右)より国体出場者を表彰

 

【土田 隆弘さんプロフィール】

1955年(昭和30年)高校入学、1958年(昭和33年)卒 第10回生

東京都豊島区出身 85歳(2023年取材時は84歳)

高校入学、入部時は身長153センチと小柄であったが、高2のレギュラー時には170センチ、体重72㎏の体躯に。ポジションは高2の時バックローセンター(現ナンバー8)、高3で副主将、ポジションは左フランカー(現ナンバー6)、

1956(昭和31年)5月 高2 憲法大会で宿敵保善高校を8-3で破り優勝

1956(昭和31年)12月 高2 全国大会初出場

1957(昭和32年)10月 高3 第12回国民体育大会(開催地静岡県大会)秋季大会 優勝

1959(昭和34年)4月 中央大学法学部政治学科入学、ラグビー部所属

1968年(昭和43年) ラグビー審判(関東ラグビーフットボール協会公認レフリー)資格取得

1963(昭和38年)年4月 東京都庁職員

2022(令和4年)まで、同窓会常任幹事運営委員

1957年 高3の時の土田さん

広報委員:入学した頃のラグビー部はどのような部でしたか?

土田:私は入学式の翌日に入部しましたが、同期は6名で、高1から高3まで40名ほど在籍するクラブでした。入学した1955年(昭和30年)は、城北学園創立15周年に当たり、鉄筋の新校舎が完成した年でもありました。

私が入学する1955年(昭和30年)以前に、ラグビー部の顧問をされていたのは、体育科の丸山鐵男先生です。剣道の指導者である先生が、なぜラグビーを教えていたのかと疑問に思われる卒業生も多いと思います。1952(昭和27)年4月にサンフランシスコ平和条約が発効して、日本は連合国軍管理下から独立ましたが、当時は連合国軍総司令部(GHQ)の影響が強く残っていたので、剣道はまだ認められず、フェンシングを模した撓(しない)競技という形態で活動していました。撓競技部の顧問は石橋先生でした。

丸山先生は、東京高等師範学校[広報委員会注:東京高等師範学校はその後東京文理大学、さらにこれを包括して東京教育大学と改称、現筑波大学]を卒業され、体育の教諭と剣道部の指導者として城北に赴任されたのですが、剣道を指導することが文部省(当時)に認められていなかったのです。ですが、師範学校出身で体育全般を指導できるということもあって、撓(しない)競技部の副顧問をされながら、ラグビー部の顧問も任されていたのです。1954年(昭和29年)に石橋先生が転勤されたのをきっかけに、丸山先生が撓(しない)競技部顧問に就かれ、後任として、出身大学の東京教育大(当時)から1954年(昭和29年)秋に、まだ大学を卒業前でいらした江田昌佑先生を顧問代行として引っ張ってこられたのです。[広報委員会注:1954年以降に撓撓(しない)競技部を改め剣道部が復活し、丸山先生は同部顧問に。また1957年(昭和32年)11月に新剣道場が完成する]

 

私が入学した1955年(昭和30年)という年は、丸山先生から江田先生がコーチのような立場で、新入生のラグビー部1期生を指導した、まさに最初の学年になりました。江田先生は、大阪府立四條畷高校から東京教育大に進むのですが、四条畷高校創立以来の天才ラガーマンと謳(うた)われた方です。 実際に、江田先生の指導力はとても素晴らしかったです。

 

江田先生は着任早々、3年がかりで国体出場を目指すという計画を練っておられて、私たちはその計画の第1期生でもあったのです。

そして私が高1の時、江田先生着任後わずか1年目、1955年(昭和30年)10月に神奈川県横須賀市久里浜で開催された第10回国民体育大会神奈川大会で国体初出場を果たします。直前の東京都予選会での大会決勝相手は強豪の保善高校でした。春の練習試合では40点以上の差をつけられ、実力差が歴然としていましたが、決勝ではワントライずつの3対3[広報委員注:当時トライは5点ではなく3点]の同点引き分けとなり、くじ引きによる抽選勝ちで初めて国体出場を決めました。

1956年(昭和31年)12月、第36回全国高等学校ラグビーフットボール大会のメンバー。左端が丸山先生、2列目右端が石丸克己先生、その左隣が江田昌佑先生、江田先生の前、1列目右端が1953年卒第5回生のOB・道正さん

 

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