報告
2024年8月28日(水)
同窓生列伝-2- ラグビー部 1957年(昭和32年)静岡国体 優勝 / 1958年(昭和33年)卒第10回生 土田 隆弘さん #2
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広報委員:国体初出場の対戦相手はどこでしたか?
土田:因縁の高崎高校です。因縁と言いますのは、1950年(昭和25年)10月に行われた関東大会中に、スタンドオフで主将を務めた鈴木寛さんが急死されるという悲劇がありました。その時の対戦相手が高崎高校だったのです。それからというもの、ビッグゲーム前にラグビー部員全員で、鈴木先輩が祀られている下赤塚の松月院までランニングして、お参りするのが恒例となっていました。1955年(昭和30年)10月、国体初出場の初戦相手の高崎高校との試合は、残念ながら18対9で敗退しました。
広報委員:国体のほかに全国大会にも出場しますね。
土田:1956年(昭和31年)12月に、兵庫県西宮市の西宮球技場(当時)で行われた、第36回全国高等学校ラグビーフットボール大会が、城北ラグビー部の全国大会初出場でした。東京都予選の決勝で立教高校と対戦して勝って、初出場を果たしたのです。東京駅から夜行列車で長い時間をかけて西宮まで移動しました。翌朝、芦屋駅に降り立った時は、興奮して体が震えましたよ。
初戦の相手は山口水産高校です。前半3対0で勝っていて、ノーサイドの寸前まで勝利を確信していたのですが、逆転されて3対8で敗退しました。翌日、5時に起こされて待ち構えていたのが江田先生による猛特訓です。芦屋川河川の砂地で全力ダッシュを何十本もやらされ、さらに、芦屋から西宮、甲子園間をマラソンするという、まさに地獄の特訓です。この猛特訓は地元で話題になり、新聞の記事になったほどです。
広報委員:江田先生はどのような方ですか
土田:江田先生の猛特訓はその日だけです。普段、一年生の部員に上級生が雑用をやらせるようなことは一切認めませんでした。当時、他の学校では三年生が絶対的な存在で、一年生はもっぱら先輩のユニフォームの洗濯や、フィールド整備や雑用に徹するような指導をしていましたけれど、城北では高3であっても自分の荷物は自分が持って、積極的に雑用をこなしていました。
それから、江田先生と東京教育大学のラグビー仲間との交流も深かったです。本郷高校ラグビー部顧問の古賀先生は大学のクラブで同級生だったということもあって、江田先生自身が招かれて本郷高校ラグビー部の創部に尽力され、指導をされたことがありました。城北ラグビー部が合宿しているところに、本郷高校の古賀先生が視察に来たこともあります。
私が卒業した1958年(昭和33年)4月に、江田先生は城北から大東文化大学に移られて、大学のラグビー部創部に貢献されました。その後、東京教育大学に戻られてから教授をやり、副学長まで務めた後、退官されました。さらに、鹿児島県の鹿屋(かのや)体育大学に請われて赴任し、 1996年(平成8年)から2000年(平成12年)まで学長までなさっています。
城北に教えに来られた1年目、私たち高1を、3年がかりで国体に出場させ、優勝するという計画を実現させたのですから、ラグビー指導も一流です。でもそれ以上に優れた教育者でもあったということでしょうね。
広報委員: 城北のラグビー部は強くなれましたか?
土田:江田先生が指導に来てからの城北のラグビーのレベルは、 練習量や技術面からみてもかなり上がったと思います。例えて言うのなら、中堅大学のラグビー部並みの強さだったと言いましょうか・・・。今の城北中央公園は、当時立教大学のグラウンドになっていました。そこで練習していた立教大学の2軍のラグビー部員に試合を申し入れたて、勝ったこともありました。 高3のとき山中湖にある、東京教育大学の合宿所を使わせてもらったのですが、すぐ隣で練習していた慶應大学の2軍ラグビー部員にも試合をお願いして、そこにも勝てましたから。