卒業生近況

1954年卒 岩崎 定良さん

一、城北中学校に入学した理由

上板橋第二中学に在校中、二年生の時になって一ヶ月入院。そのため、四月進級するかどうか考えた。留年して、下級生と一緒に勉強することが面白くないと判断し、別の学校に入りたいと思うようになった。母親が小学校の先生をしていたので、戦争後の混乱期に出会い、そのころ小学生は尋常小学校(七年間)があったので、それがなくなる国の方針で、すぐに高校を受験することができるようになった。当時、上板橋第二中学校で別の学校を受験したいと思っていたので、すぐに城北学園中等部へ受験して一年留年して、合格をしました。

二、当時はジスイズアペンの英語が読めなくて恥ずかしい思いがありました。先生は清水義一、通称ギッチャンといい「編入生」は何もできなかったので何を聞かれても答えられなかったので、両手に水を入れたバケツを持って、立っていなさいと言われました。

三、当時クラブ活動は在りましたが、前校で野球部に入って捕手の補欠で入部出来ました。大きなグラウンドは、まだ高い金網がなく、バッティングゲージさえ有りませんでした。まだ軟式野球部で、初めは各部が時間を決めて、週三回・三時間だったと思います。一学年下に高野君・柳下君が居ました。私とバッテリーを組んだピッチャーは増田君といい、当時四十センチの落差があるドロップという球を使いました。D組にいた人が高橋君でした。もう一人、井野さんというファーストの方もいました。二年先輩の千葉さんという人がいました。練習試合は城北のグラウンドが広かったので試合の申し込みが多数有りました。公式戦は、上井草球場で行なわれ、第四ブロック中で勝ち進むと神宮球場でした。一回だけ勝ち進み、神宮へ行ったことがありました。

四、一学年四クラスで一クラスは男女共学、一つは進学組、二つは普通組で、もう一つ男女共学組がありました。した。一学年五十五名ぐらいでした。学級代表になれたのは、出席は先生が声を出して下を向いて読みあげるので、生徒の何人かが教室から逃げ出したので、先生が下を向いて出席簿の中の名前を読上げるので、私が、ハイ、ハーイ、イエッサ、ここに居るよ等、こわ色など使いわけをしました。

一学期は別の人が代表になり、三学期になると、私が推選されました。

五、三年になって、やっと大学受験。キャプテンだった森田一男、通称テツカブト、マネージャーは私で、色が黒かったのでインデアン、もう一人岩崎さんという顔が色の黒い人がいて「一号」「二号」と言われていました。捕手のサインは選手の女友達のアダナで、アウトコース目の時は、ライトの方向に打球が行くのでその選手のカノ女の名前、インコースはレフトの選手のカノ女の名前を使いました。当時のスコアブックがなくなったのが残念です。

 六、或る時ラグビー部の主将加部君が私の部へ来て、体の大きくてボールの方向がマスクをぬぎやすくついて行ってよくとれる感がいい捕手である君にラグビーの試合に出てくれないかと誘われスクラムの五番をまかせられたのが思い出され、これも神宮に行かれるきっかけでボールをおいかけまわしました。

 七、英語の先生で、講師だった尾形先生が「大学はどこにするのか」とたずねられた。城北高校のコーチの上監督の上の顧問だったので、無ければ明治学院大学に来ないかと森田君と一緒に誘われました。森田君は、日本体育大学に合格をしましたが、私は先生にすすめられ明治学院大学に進むことになりました。当時先生によると、英語の合格点より五点低い、四十五点で、それより低い五〇番目でしたが補欠合格者の中から入学が出来ました。

 八、大学に入ってすぐに健康診断があり、肺結核となり、四年間休学、復学は試験の代わりに論文を書きなさいと言われ原稿用紙に結核になった理由を事こまかく書きました。私の入学時の個人番号は五十四年度生五四五四となっています。補欠入学だったので五十七年度生と一緒でした。

 九、当時だれも知っている人がいなかったので、友達をつくらなくてはと、クラブ活動を見て歩きました。以前から小さな子供が好きだったので「児童研究会」とキリスト教児童教育研究会に顔を出しました。一方はよくいらっしゃいました、どうぞ入部してください。もう一方は自分の五四五四番を見て「どうして四年間も遅れているのですか、部室までおいで願うか、校内の図書室または近所の茶店でおうかがいしましょう」と言われ、色々話をしましたが、このように親身になって話を聞いてくれる部があるのかと、通称「基児研」教育研究会に入部しました。始め部室で賛美歌を三十分、それがすむと近くの公園に行って、小学生と一緒にケンケンパ・ナワとび。平均台の上にのってジャンケンポン、勝つと先に進み敗者は台からおりて自分のチームの最後尾に。相手が勝つと進み、平均台に乗せたくなったら自分のチームの勝利、子供と勝敗に「力」だけでなくチエや「運動神経だけのあそびをしていました。その時のクラブに入ってから感じたのは、なんて優しい人たちなのかなと思って入部をしました。授業のあい間にチャペルに行ったのも友達とでした。後で知ったのですが「メソジスト派」宗教の中の新教の一派、始めはなにか分からなかったのですが時々言葉が切れると全員で「アーメン」ととなえていました。その心は「あなたのみ話に同意します」と答える時のキリスト教用語です。

 十、現在、大学を卒業して、中学校、志村第四中に十年、中台中に二年、高島第二中に十年、開進一中の特殊学級一年、豊玉第二中学の不登校学級に二年、それを終えて退職、生活指導主任をしていたので、生活主任がなれる教育長指導部に配属、嘱託として計五年、六十五才で全事業からしりぞきました。あとはキリスト教の信者として困っている人に手を指しのばお困りのことがあったら聞いてあげます、精神的なささえになりますよと想っています。七年前脳梗塞になり、杖をついて歩くようになりましたので、神様がもう天国に来なさいというまでバカをいいながら「ダジャレ」オヤジギャグを連発してくらしていきます。

 現在、日曜日に教会に行って礼拝をささげ献金を五万円。帰りに上板橋のそばの王将でギョウザを二パック持ち帰り、十四時頃それを食べて昼食として楽しく食べています。

趣味は囲碁で一級の面状を持っています。ゲームはプレイステーション2を毎日して楽しんでいます。城北の常任委員会は外へ出るので楽しみです。

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