卒業生近況

1974年卒 安藤 淳一さん (2019年6月1日)

私と城北学園

入学

私が城北高校に入学したのは昭和46年、沖縄返還協定が調印されまた、野球のオールスター戦で江夏豊投手が9連続三振の快挙を成し遂げた年です。当時の入学式は4月1日で当然東京一(日本一?)早い入学式であったと記憶しています。3年間の学園生活は1年の担任が須田忠良先生、2年が中山桂太先生、3年が吉田正美先生で御三方とも個性的でユニークな先生方でした。出来の悪い生徒でしたが、数学科の相原先生、夏目先生、英語科の島田先生、社会科の佐藤先生、体育科の宮川先生、大仁田先生などお世話になった多くの先生方の顔が浮かびます。勉強した記憶はほとんどありませんが、それでも某3流大学にストレートで合格し、学校に報告に行った際には吉田先生に「嘘だろ」と驚かれたのを覚えています。

 

部活

小さい時から野球が大好きでしたが、通っていた中学校に野球部が無かったため高校で野球部に入るかどうか悩んでいました。しかし、入学後野球部の練習を見ているとどうしてもやりたくなり、勉強しなくなるからという親の反対を押し切って入部しました。同期の入部は30名以上で、限られた練習時間の中で1年生は3か月間キャッチボール程度しかボールを使った練習が出来ず、もっぱら走り込みの毎日でした。1年生の役割はグランド整備、ボール磨き、部室の掃除などでしたが、一番大変だったのは先輩への挨拶でした。とにかく先輩の姿を見た瞬間に挨拶しろと教えられ、当時の「城北」という冊子には「・・・学校中に響き渡る蛮声・・・」と「オウ」とういう挨拶がうるさいと投稿されていました。

毎年の最大のイベントは、3年生が引退した後の合宿です。8月初旬の1週間、学校に寝泊まりして朝から晩まで野球漬けの日々を送りました。この時期には暇な大学生OBが来校して日ごろのストレスを発散すべく、ノックの雨を降らします。当時は練習中に水を飲むことはご法度で、脱水症状で倒れる者もいましたが、要領のいい奴はトイレに行って水分補給をしていました。もちろん私はその部類でしたので倒れることはありませんでしたが、寝ている奴を見て少し羨ましかったのを覚えています。今でも同期が集まった時の思い出話には、必ず合宿での出来事が語られる程印象が強いイベントでした。

当時の監督は、森田英直先生でたまに怒ると本当に怖い先生で、グラウンドに姿が見えた瞬間にピリッとした空気が漂いました。部長先生は藤下先生で、森田先生とは対照的に含んで聞かせるようなおっとりとしたしゃべり方の先生でした。また、吉川先生もよくグランドに来て檄を飛ばしてくださいました。毎日の練習は2時間くらいで決して豊富な練習量ではありませんでしたが、3年生の夏季大会はシード校となり4回戦からの出場でした。5回戦で上位シード校の日大二高に敗れましたが、不思議と涙は出ませんでした。私は代打での出場でしたが、ヒットを打つことができ、やりきった感もありました。この頃は「もう野球はいいかな」とも思いましたが、大学に入りまた野球の練習を見ているうちにやりたくなり、準硬式野球部に入部してしまいました。

 

現在

城北高校を卒業して間もなく45年になります。今は「マスターズ甲子園」での甲子園出場をめざし、城北高校野球部OBで構成されるマスターズチームで東京予選を戦っています。もちろん我々世代が最年長で全く戦力にはなりませんが、今まで接点の無かった若い世代と野球ができるのはとても幸せです。いつまで続けられるか分かりませんが、監督の中山桂太先生や後輩とともに甲子園の夢を追い続けたいと思っています。

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