卒業生のお店・会社

卒業生の会社紹介/No.2 虎ノ門共同法律事務所

1970年卒 第22回生 塚越 豊さん

広報委員

入学年と在校時の話を伺えますか?

塚越

1967年(昭和42年)の入学です。卒業が1970年(昭和45年)ですが、当時は学生運動がはなやかなりし頃で、前年の1969年(昭和44年)には東京大学の入試が、大学闘争のあおりで中止になっています。城北と同じ板橋区にある都立北園高校も学生運動が盛んで、結構荒れていましたが、城北は荒れるという事は全くなかったですね。

部活は佐藤武久先生が顧問の吹奏楽部で、フルートを吹いていました。実は今でもフルートを趣味で吹いています。アンサンブル・フォウ・ユウという、弁護士等の法曹を多く抱える、団員35名程の管弦楽団で、第1回から16回まで定期演奏会でフルートを演奏していましたし、この楽団の団長を2004年(平成16年)からずっと務めています。在学中、私の一つ下でトロンボーンを担当していたのが浮ヶ谷(うきがや)孝夫氏で、彼は今、ドイツのブランデンブルク国立管弦楽団フランクフルトで、首席客演指揮者をしているそうです。高1の時の担任が剣道の丸山鐵男先生、高2・高3は物理の金子量夫(かずお)先生です。

広報委員

えっ?理系だったのですか?

塚越

たまたま理系に行ってしまったんです。でも成績が全然だめでした。物理も化学も数学もできず、劣等生でした。高3の時の成績がクラスで下から2番目でした。一番成績が悪いのは長期欠席していたクラスメートでしたから、実質私が一番下にいたことになるわけです。勉強が嫌で嫌でたまらなかった時期でした。

先生の思い出としては、漢文の前田光徳先生の授業が思い出されます。先生は中国の偉大さをよく話されていましたが、授業はいつも5分くらい遅れて教室に来られるのがずっと不満でした。授業内容には興味はありませんでしたが、先生の行動が、大変気になっていました。ある日授業前に黒板に、いつも始業ベルが鳴った後遅れてくるのは何故なのか、時間通りに来るようにと、大書して待ちました。私としては、先生は大きな事ばかり云う割に、時間を守らないし、人に道を説くのであれば、自分の行動をきちんとすべきだ、と言いたかったのです。暫くして先生が入ってくると、板書をゆっくり読み、やがて無言で消すと、いつも通りの授業を始められました。私は、だれが書いたのか名乗れ!と怒鳴られるかと思い、その時は名乗りを上げるつもりでおりましたので、拍子抜けしましたが、先生の大きな心を感じました。 他に、軍隊上がりでゲートルを巻いていた古文の島田欣一先生、静座の長かった生物の石崎廣義先生のお二方にひっぱたかれた思い出があります。

結局、クラスで文転[※理系から文系に志望変換すること]したのは私だけだったように記憶しています。1年間城北予備校にお世話になって、それで1971年(昭和46年)4月に中央大学法学部に行くことになったのです。

広報委員

在校時から正義感が強かったのでしょうね。ところで、文転して浪人するのも大変ですが、中央大学法学部に入るのは、もっと大変だったのではないですか。

塚越

予備校に入った時の成績が悪くて、2,500人中2,400番台でしたから、最下位のクラスでした。でも城北予備校のおかげで中央大学法学部に行けたと思っています。本校の先生が何人も予備校にもいらしてました。

広報委員

私が中学に入学した1977年(昭和52年)前後、近藤薫明校長がラジオCMで、自ら城北予備校の宣伝をされていましたよ。予備校は1987年(昭和62年)に惜しまれつつ廃校になりました。

塚越

城北予備校のすぐ隣、今防衛省になっている建物は、当時自衛隊市ヶ谷駐屯地でしたけれど、1970年(昭和45年)11月25日に、作家の三島由紀夫が、その建物でクーデターを呼びかけた後、割腹自殺をした「楯の会事件」があって、予備校のテレビで生中継を見ていました。

その後、楯の会事件の公判が東京地方裁判所であったので、私はその法廷傍聴に出向きました。社会的な事件は高校時代から興味を持っていました。

広報委員

大学では裁判官を目指す勉強をされたのでしょうか。

塚越

当時は悪い奴らをやっつけたいと、検事にあこがれていました。大学に入学した1971年(昭和46)年の5月に、司法試験を受けるための研究室の入室試験を受けまして、白鴻(はくこう=白いこうのとりの意=)会に運よく入れました。ここでは随分勉強しました。大学を卒業した翌年の1976年(昭和51年)10月、25歳の時、司法試験に合格して司法修習生となりました。

修習生活が始まると、今度は刑事裁判官になりたくなったのです。でも最終的には、困っている人の役に立てる弁護士を選ぶことにしました。2年の修習生活を終え、1979年(昭和54年)4月、28歳の時に弁護士資格を得ることができました。

広報委員

25歳で司法試験に受かるのは、かなり早い方ではないですか。弁護士資格を得てからはどうなさったのですか。

塚越

千代田区丸の内にあった、大先輩の榊原卓郎先生の事務所に1979年(昭和54年)に入って勉強させてもらいました。榊原先生は宮城県出身で、いつもニコニコして、人を尊重する大人でした。よく飲みに連れて行って貰っては、弁護士としての立ち位置について薫陶を受けました。この事務所で3年目の1981年(昭和56年)、困っている人がいると聞いて、布川事件※の弁護に関わるようになったのです。弁護団の一員になるという事は、それなりの覚悟がいる事です。そこで迷惑をかけてはいけないと、事前に榊原先生に伺いを立てると「是非やりなさい、塚越頑張れよ!」と言葉をかけて頂けたのは、本当に有難かったですね。榊原先生の事務所にいた9年間は、人としていかにあるべきかを学べましたし、私自身も随分とカドが取れた気がします。

※布川事件(ふかわじけん)

1967年(昭和42年)に茨城県で発生した強盗殺人事件。犯人として近隣に住む青年2人が逮捕・起訴され、無期懲役刑が確定したが、証拠は被告人の出鱈目な自白と現場のあいまいな目撃証言のみで、当初から冤罪の可能性が指摘されていた。2005年(平成17年)、第二次再審で再審開始決定が下され、2011年(平成23年)5月、水戸地方裁判所土浦支部にて全面無罪判決が下された。

参考:Wikipediaより/https://ja.wikipedia.org/wiki/布川事件

広報委員

塚越さんが立ち上げた、虎ノ門共同法律事務所の特徴は何ですか?

塚越

1988年(昭和63年)、37歳の時に虎ノ門3丁目で共同事務所を立ち上げて、以来32年間、4回引っ越しましたがずっと虎ノ門界隈にいます。事務所立ち上げにかかわった弁護士は、司法修習生の時から一緒だった同期の仲間3人です。共同事務所ですので各自が案件を抱えていますが、時に共同して事件にかかわることもあります。今は構成が大きく変わり、若い弁護士もいます。

今の私の弁護士としての仕事は、幅広く多岐にわたります。大きな法人からの依頼などでは、外部顧問の立場で、裁判の依頼やら各種意見書作成を求められることがよくあります。個人からの依頼も随分あって、内訳も民事事件から刑事事件、離婚調停まであり、実に様々ですね。依頼主は主に都内全域からですが、他県からもご依頼を頂きます。お陰様で忙しく過ごさせてもらっています。

広報委員

布川事件の弁護団というのはどういった様相でしたか

塚越

私が弁護団に加わった1981年(昭和56年)当時、著名な弁護士が多くいましたが、1992年(平成4年)に第一次再審請求が最終的に棄却されてしまいます。それからしばらくは冬の時代でした。2001年(平成13年)に第二次再審請求の申し立てをしたとき、弁護団は20名近くおり、私は中枢メンバーにおりましたが、仲間の頼みを聞き入れて、最終局面で事務局長を引き受けました。このころは皆必死でした。2005年(平成17年)、私たちの再審請求に対して、水戸地裁で開始決定が言い渡され、その後、東京高裁も最高裁も開始決定を維持しました。その後の再審公判で無罪判決が出たのは、東日本大震災直後の2011年(平成23年)の5月24日のことでした。2人の逮捕から実に44年、無期懲役刑が言い渡されてから、29年の歳月をかけて、漸く無実を勝ち取れたわけです。

私はその間に、日弁連人権擁護委員会の再審部会の委員になり、17年たった今も務めております。

広報委員

同窓生、在校生にメッセージを頂けますか。

塚越

私の同期生は68・69歳になっているので、世間ではそろそろ、心も体も休める時期に来ているように思われますが、そんなことはなくて、歳をとっても、いつまでも元気に、好奇心をもって、あちこちを嗅ぎまわるようなアグレッシブな人生を送ってもらいたいです。年寄りの情熱は本物だと言えると思います。

在校生に言えるのは、知的好奇心をどのように満たしていくかが重要だという事ですかね。歳を経るに従って知りたいことが増えてくる。勉強、研究したい対象がどんどん増えてくる。高校時代はその幕開けの基礎を作るときですから、常に好奇心旺盛であって欲しいです。

  • 敬称略 
  • 取材:同窓会 広報・ホームページ委員 清水康二(1983年卒・第35回生)
  • 取材日:2020年(令和2年)6月18日

 

虎ノ門共同法律事務所

弁護士 塚越 豊

105-0001 東京都港区虎ノ門1-8-11 5825第1ビル4階

TEL03-3593-8961  FAX03-3593-8964

メールアドレス orionm42yt@yahoo.co.jp

 

【広報委員追記】

布川事件は歴史に残る冤罪事件として、当時多くの関心を集めました。元被告人の桜井昌司氏が獄中で毎日書き留めた日記[1967年(昭和42年)11月8日~1970年(昭和45年)10月6日までの間]を塚越さんが分析し、文藝春秋社から出版した著書が『土芥寇讎(どかいこうしゅう)超記』です。全部で737ページあります。

「無実を主張しながら獄中に留め置かれている青年の苦悩や怒り、それを越えた心情等を詳細に分析したもの」(塚越さん談)とのこと。ご一読をお薦めします。

布川事件・櫻井昌司の獄中日記

土芥寇讎(どかいこうしゅう)超記

二九年幽閉された青年の心の軌跡

発売:文藝春秋

ISBN-10: 4160089100

ISBN-13: 978-4160089105

定価:2778円+税

発売日:2017/10/27

 

原題の「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」は江戸時代中期の元禄時代に書かれたと考えられている、各藩の藩主や政治状況を解説した本です。当時の政治状況や各藩に対する認識を示した珍しい史料として注目されております。

「土芥」「寇讎」は『孟子』巻八「離婁章句下」第二段に拠ります。

「君の臣を視ること土芥の如ければ 則ち臣の君を視ること寇讎の如し。」

土芥(どかい)=土とごみ。とるにたりないもののたとえ 

寇讎(こうしゅう)=あだ、かたき

出典: Wikipedia、goo辞書、weblio辞書

塚越さんによれば、桜井昌司さんが、国家権力に対して、無実にもかかわらず自分を陥れたとして仇討ち、敵討ちをしたいとの思いを超越した境地になった心情を捉え、「超」という文言を加えたとのことです。

 

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