卒業生のお店・会社

卒業生の会社紹介/No.3 神谷司法書士事務所

1984年卒 第36回生 神谷直(ただし)さん

部活の思い出

高校入学は1981年(昭和56年)です。入学したら軟式テニス部に入ろうと思っていましたので、入部のお願いをしようと、当時校舎の中庭にあったテニスコートに向かって歩いていました。コート脇の道を挟んだところに弓道場があり、上級生がちょうど出てきたのです。「ちょっとだけでいいから部活見て行かない?」と気安く声を掛けられました。弓道に特に関心がなかったのですけれど、実際に弓を持たせてもらい、引いてみると、なんと的に的中したのです。すると「すごいね君!」と驚かれ、絶賛されました。まんざらでもない気分になったのは事実ですが、気が付くと弓道部に入部ということになっていました。何かに名前を書いた気はしたのですが・・・。それ以来、在学中の3年間、弓道漬けの生活になりました。

高校の弓道部員は一学年15人ぐらいで、全員で45人ぐらいでしたでしょうか 。当時は本当に厳しい指導を受けていましたから、正直部活を続けるのがきつかったです。あまりの練習の厳しさに耐えかねて辞めていった同級生が多かったので、夏には1年生の人数は10人を切っていたほどです。下級生には規律があって、高3の先輩の顔をまともには見てはいけないと言われていましたし、 挨拶をし損ねようものなら、それだけで正座をさせられました。唯一の楽しみといえば、部活が終わって同級生と中本の蒙古タンメンを味わう事くらいでしたね。

 

弓道部の夏合宿も忘れられません。長野県の道場に1週間詰めっきりで、朝から日暮れまで100本は射っていました。1年生は特に大変で、自分たちの練習を終えると、まず先輩たちの矢を拭き、夜になって的(まと)紙を張替える作業がありました。この的の張替えも結構手間がかかるもので、ぼろぼろになった的にのり付けされた紙をはがし、木枠が現れるまできれいに水でふき取り、その上に新聞紙を5層に貼りつけ、最後に的紙を貼ります。これを20個ぐらい仕上げた後、食事になります。

食事中も、十数人いらっしゃる大学生や社会人のOBの方々に常に気を配り続けなくてはなりません。OBの手元の椀が空いた瞬間に「お代わり如何ですか?」とすぐに駆け寄って尋ね、支度するので、自分のご飯を食べる余裕などありませんでした。

自分たちが漸く1杯目のごはんを食べ終えてお代わりをしようとする頃には、既におひつが空になっているのです。そのおひつにうっすらこびりついたご飯粒を、爪でこそいで口にすることを毎晩続けていて、何ともやるせなかったです。

次に風呂の時間となり、先に入った先輩やOBから、角質を落とす軽石の形が悪いから割ってこいだの言われることもあり、とにかく合宿中は常に気が張っていたことが思い出されます。

弓道の成績についてですが、インターハイに行くためには、東京都で3位以内に入らなければならないのですが、私が高3の時4位で、残念ながら行けませんでした。私は、勉強とクラブ活動はまじめに続けるつもりでいましたから、3年間この厳しい部活をなんとかやり遂げました。

ところで、今、弓道場に行くと中高生合わせて100人ほどの大所帯になっています。上下関係も厳しくなく、みんな穏やかというか、 和気あいあいとしていて、そうした友達みたいな雰囲気に、とても驚ろかされます。

1982年(昭和57年) 高2の時弓道場で

 

懐かしの恩師

高1の時の担任だった笹川俊明先生のおかげで、数学には興味を持ちました。小曽根先生の地理も楽しかったです。英語科の興津先生は受験の事を結構研究されていました。独特の名調子な発音と教え方がユニークで、「覚えとけ」と言われたセンテンスが随分受験に出て役立ったので、さすが興津先生だと感心しました。当時はつっぱりブームで、うるさい生徒が大勢いましたが、せっかく城北に入ったんだから大学進学したいと思い、頑張って選抜クラスに入りました。

高2の時の担任は、あだ名がバンブーと言われた英語科の吉田正美先生です。修学旅行は九州で、長崎・福岡に行きました。福岡市の柳川で観光船に乗ったことも忘れられません。反対側から共学高校の学生たちを乗せた船とすれ違いざまに、学ランを着た男ばかりの私たちを指さして、女子生徒が「何あれ、囚人を運んでいるみたいね。」と言い、笑われたことだけは鮮明に覚えています。

高3の時の担任は社会科の小川吉蔵先生です。この時まで弓道部にどっぷりつかっていたので、さすがに受験勉強に集中しました。弁当は午前中に食べ終えて、仲の良い友達数人と、図書室に行って、昼休み中ずっと勉強をしていました。1年間それを続けていたからでしょうか、中央大学法学部に進学できました。

 

司法書士の仕事

私は、大学在学中も卒業後も弁護士の私塾に通いながら司法試験合格を目指して長らく準備していました。ある時、亡くなった父の書斎で司法書士関係の本が1冊あるのに気づいて、それを見たとき、「あ、この道もいいな」と思えたのです。それですぐ、都内の大きい司法書士事務所に勤め始めました。仕事をするうちに「こんな面白い仕事があるのか」と法曹界に縛られていた自分がバカに思えたほどです。自分のこれまでの知識も使えるし、人の役に立てるし、自分の仕事の役割に新しい驚きがあって、興味がますます持てるようになりました。資格も宅建士、 行政書士ととり、幅広く司法書士の仕事を覚えて、2010年(平成22年)に司法書士資格を取りました。

株式会社等法人の仕事が得意でしたから、翌年こそ独立して、企業が多い新橋か渋谷に事務所を構えようと意気込んでおりました。物件を探し始めていた矢先の2011年(平成23年)3月に、東日本大震災が起きたのです。

震災当日、勤めていた新宿の事務所から歩いて川崎市の自宅に帰る道すがら、田園調布の高台から、千葉県市川市辺りの石油コンビナートが燃えているのが宵闇に見えたのはショックでした。

万が一の時を考えると、渋谷・新橋といった都心より、自宅の近くで事務所を構えた方がいいと思うようになりました。震災から半年後の9月に、川崎市内の中原区で独立開業しました。

 

相続専門の司法書士・行政書士事務所を開設

司法書士の仕事で重きをなす、不動産の売買に関わる案件で、親の不動産を相続した3兄弟の絡む仕事に遭遇しました。売買手続きを終えた時、均等なお金を相続できたのにも関わらず、3人は見事にバラバラになりました。「二度と、兄弟とは会いたくない!」という捨て台詞を残して。驚きました。自分がもっと力になれなかっただろうかと考えさせられました。この時の体験をきっかけに、自分は法人需要を開拓するより、相続で悩む人たちの役に立つことの方が、やり甲斐があるのではないかと思うようになったのです。

その一方で、相続は終わりが見えない不定期な案件が多いのも事実です。でも続けることで必ず喜んでもらえると信念を持っていました。そこで最初の取り組みとして、1日20件ずつ゛ドブ板営業”を始めることにしました。不動産業者、弁護士事務所、税理士事務所、銀行、信用金庫を毎日20件ずつ訪問営業しましたが、全く相手にされません。

2か月目に飛び込んだある税理士事務所でのことです。名刺を差し出す私を無視しながら、ずっと資料をめくっておられた税理士先生がいらっしゃいました。私はたどたどしく開業した旨を話し始めたのですが、先生は聞いている様子もなく、考え事をされている様でした。そのまま名刺を置いて帰ることもできたのですが、先生が「ううん、困ったな」とポツリとこぼされたので、何ですかと恐る恐る尋ねました。先生は、法律の解釈がよく分からないので困っているとおっしゃいました。そこで、「私、調べてレポートにできますよ」と告げて一旦事務所に戻り、A4の1枚ペラをその日のうちに届けました。

暫くしてその税理士先生から「得意先に大変喜ばれた、有難う」とお礼があり、その翌々日から最初の仕事を振ってもらえたのです。それからは、次から次へと依頼を頂けるようになりました。弓道部時代に地道に堪えることを体験していたことと、一期一会を大切にする気持ちが、役に立ったのではないでしょうか。

話しはそれますが、今、中原区の地域支援事業の一環として、ご高齢者に役に立つ相続の勉強会の講師をしております。これも人との出会いと、地域の人の役に立ちたいという思いから引き受けています。

2011年(平成23年)に大手司法書士事務所から独立する直前、上司から「相続を扱うと時間がかかるし金にもならないから避けた方がいい」と云われていました。独立後も「相続なんかに特化して食べていけるのか」とも。今では、仕事の8割がたが相続関連で、年間約130件もの相談を受けています。

城北の卒業生から連絡を貰う事もしばしばあります。私の事務所のホームページで出身高校が城北と知ってメールを頂くケースや、2014年(平成26年)発行の同窓会報第26号の記事をとっていらして「相続問題を誰に相談してよいか分からなかったので電話してみました」と問合せてくる卒業生もいらっしゃいます。城北高校の縁は本当に有難いです。

 

私が関わる業種の人たちは、相続関連士業と言われる弁護士、税理士、土地家屋調査士のほかに、不動産業、解体業、遺品整理業、貴金属買取り業、葬儀業の方々がおります。こうした人たちとの緊密なネットワークを築いていることと、専門的な知識によって、ワンストップで相続の進行をこなしてゆけるのが自分の強みでもあるのです。

相続が発生すると、相続人は、否が応でも相続財産についてどのような考え方で分配するかというとてもナイーブな問題に直面します。相続を繰り返し経験している人はいないので、相続人はみんな初心者です。相続の道先案内をしてくれる進行役が是非とも必要です。加えて、その進行役は専門的な知識と経験を兼ね備えていることが重要な資質になります。それを責任をもって引き受けることが私の仕事なのです。

今、私の事務所ではZoom によるオンライン無料相談も行っています。

 

今後も「地域密着 相続の窓口」、「相続の専門家」をモットーに、城北高校弓道部で培った経験と、相続の知識を活かして、これからも一期一会の出会いを大切にしてゆきたいと考えております。

 

 

【プロフィール】

神谷 直(かみや ただし)

東京都北区出身、1984年卒 第36回生

高校在学中は弓道部所属

卒業時の担任は社会科・小川吉蔵先生

1988年中央大学法学部卒

大手司法書士事務所を経て2011年より独立開業

座右の銘:備えあれば憂いなし

 

神谷司法書士事務所

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