報告
2018年11月29日(木)
城北OB現役パイロット
現役パイロットOB座談会(#01)
常任幹事役員の岡崎俊城監事(12回生)の司会により城北OBによる現役パイロットのOB座談会が平成 30年11月29日に城北学園会議室にて行なわれました。同業種のOB同士の関係構築・情報交換の機会創出を見込み、さらに同総会の活性化を目的として「業種別ネットワーク推進委員会」が先行して発足しており、今回の「現役パイロットOB座談会」は同会初の座談会として実現しました。今後他業種における座談会の機運の高まりと、OB・現役生の話題喚起が期待されます。
⇒現役パイロットのOB座談会 全文PDFはこちら(PDF:1,238KB)
『城北OBによる現役パイロット座談会』のご感想・ご意見をお待ちします。 E-mail、もしくは郵送にてお寄せください。
【送り先】
E-mail:info@johoku-obkai.com
郵送 :〒174-8711 東京都板橋区東新町2-28-1 「業種別ネットワーク推進委員会」宛
【出席者プロフィール】※敬称略
司会)岡崎俊城(12回生)
1941年生まれ・77歳
1965年学習院大学政経学部(当時)卒、1965年日本航空株式会社(JAL)入社
JALではアムステルダム支店長、取締役東京支店長、常務取締役、ジャルセールスネットワーク取締役社長、日本アジア航空代表取締役社長、ジャルックス表取締役社長などを歴任。
高校時代陸上競技部創部に奔走する。
現在城北同総会常任幹事運営委員。
薬師善輝(30回生)
1959年生まれ・59歳
1983年航空大学校卒業後ヘリコプターのパイロット、国土交通省航空局職員を経たのち2007年に日本貨物航空(NCA)に入社、機長として現在に至る。
中学時代ワンダーフォーゲル部、高校時代は予備校に通う。
座右の銘:うとまず、うらまず、うぬぼれず
岡田敏章(32回生)
1962年1月生まれ・56歳(座談会時)
1986年北海道大学理学部卒 1986年キヤノン入社後、中途採用で1990年1月日本航空(JAL)入社 2010年JALの経営破たんにより同年年末退社、タイ・バンコクの航空会社に転職、2013年2月AIRDO(エアドゥ)入社、現在B767の副操縦士職を勤める。
高校時代合唱部で、現在も合唱を続けている。
座右の銘:今ここで頑張らずにいつ頑張る
村松康雄/兄(32回生)
1962年生まれ・57歳
1985年東京農工大学卒、1987年修士課程修了同年日本航空(JAL)入社、自社養成にて基礎課程を修了。
1992年副操縦士、2000年機長、現在機長兼教官職を勤める 。
高校時代水泳部[水球部]。
座右の銘:努力は裏切らない。常に感謝の心。
黒野浩太郎(34回生)
1963年生まれ・55歳
1987年慶応義塾大学卒、日本航空(JAL)入社、自社養成にて基礎課程を修了、現在機長職を勤める。
高校時代硬式テニス部
座右の銘:Never Give Up!(JALのエントリーシートにも書きました)
C.登山(35回生)
1964年生まれ・54歳
1988年中央大学理工学部卒業時に運輸省航空大学校に入学 1990年、日本エアシステム(JAS)入社。 2004年、日本航空(JAL)と(JAS)経営統合。
2012年、J-AIR出向 2018年、JAL帰任 現在B737の機長職を勤める。
高校時代 ボート部
座右の銘: 看脚下
※ご本人の希望により氏名をC.登山と表記しています。
村松敬哲(ひろのり)/弟(38回生)
1967年生まれ・51歳
1985年明治大学入学、1989年アメリカ留学中にカリフォルニア州で訓練中の兄を見てパイロットを志す。1990年航空大学校入学、
1993年日本航空(JAL)入社、現在機長兼フライト教官職を勤める。
高校時代水泳部[水球部]
座右の銘:人間万事塞翁が馬、だからいつも平常心
木村元彦(41回生)
1970年生まれ・48歳
1990年法政大学経済学部入学、1994年全日本空輸(ANA)入社、自社養成にて基礎課程を修了、現在機長職を勤める。
中学・高校時代水泳部[水球部]
座右の銘:日々前進
木村尚史(なおふみ)/(42回生)
1971年生まれ・47歳
1989年 筑波大学入学、1993年航空大学校に入学、1996年卒業、日本航空(JAL)入社、現在機長職を勤める。
高校時代硬式テニス部
座右の銘:おもしろき事なき世をおもしろく すみなしものは心なりけり
藤原雄滋(61回生)
1990年生まれ・28歳
2009年東京理科大学理工学部機械工学科入学、2013年大学卒業後、航空大学校に入学。2015年航空大学校卒業、2016年に琉球エアーコミューター(RAC)に入社、現在副操縦士職を勤める。
中学・高校時代ラグビー部で、弟3人とも城北のラグビー部、父親は城北の数学科教師
座右の銘:克己復礼
司会)岡崎
城北高校OBで現役のパイロットをしている9人においで頂きました。現役でパイロットをしているOBは約30人いらっしゃるそうです。パイロット人口※1に対して30人以上という数からみると城北OB率は非常に高いと思われます。今後城北から大空にはばたく人が増えてほしいという願いから、同窓会として初めてパイロット座談会を企画致しました。
パイロットという職業上、シフト性が引かれているため互いに都合を合わせるのが非常に難しいものなのですが、今日いろいろな航空会社から9名もの人が集ってもらえたことは非常に有難いことです。どうぞ宜しく。
※1 2013年1月1日現在国内パイロット数:5,686名 (国土交通省資料より)
司会)岡崎
まず私から自己紹介。12回生で昭和35年(1960年)卒業、昭和39年(1964年)の就職の年に東京オリンピックがあり、海外渡航が自由化されました。航空会社はこれから伸びるのではないかと考え、飛行機に1度も乗った経験もないままに日本航空(JAL)に入りました。 どのような動機で航空会社に入ったのか、各人に伺いましょう。
薬師善輝
昭和34年(1959年)生まれ、一浪して1979年の時に航空大学校に合格して入ったのですが、第2次オイルショック※2の直後だったので私の前後5年間は民間航空会社では自社養成※3がなくなっていました。航空大学校に入学後OBがいるか調べたところ、私の2学年上の23期生に現役で入って全日空に行かれた米倉さんと森川さんの2人がいらした。
2~3年上の先輩方が就職するときは、民間航空会社に3割~5割就職できていましたが、私が卒業する1982年も5割程度にとどまりました。同期33人のうち、3人が中退し、クラスの半分はパイロットとして就職できましたが、半分があぶれたのです。
このような就職状況がしばらく続きましたが、私は卒業してヘリコプターのパイロットを5年、そのあと全く関係のない製造業と会計事務所に合わせて2年勤めましたが、それでも航空機のパイロットの夢を捨てきれず航空会社を受けようとしました。
1989年頃、民間航空機会社では自社養成が復活していましたが「引き抜き防止協定」というものがあって、養成には多額の費用が掛かるため、就職元から就職先に2年間は空けなければならない、という自主ルールが航空会社に存在したため一般企業に就職したのです。
そのあと国土交通省航空局職員として飛行検査官を4年、航空大学校の教官を6年、試験官、審査官を8年の計18年間公務員を続け、2007年に日本貨物航空(NCA)に移り、以来11年間パイロットをしています。
司会)岡崎
どういう動機でパイロットになろうと思ったのですか?
薬師
伯父が陸軍航空士官学校の最後の飛行機乗りでした。ただ、飛ぶ前に終戦を迎えてしまった。そのあと陸上自衛隊に勤務していました。自宅が入間基地の近くであったこともあり入間基地の航空祭にも連れて行ってもらいました。
小学校5年生(1970年)の時、よど号ハイジャック事件※4が起きてニュースになり、この時からパイロットになりたいとずっと思いました。
※2 1973年(第1次)と1979年(第2次)に始まった原油の供給逼迫および原油価格高騰と、それによる世界の経済混乱。-出展:Wikipedia
※3 航空会社が一から未経験者を訓練生として採用し、パイロットに育てる制度。自社養成は、多額のコストを要するため、自社養成の規模は、その時々の経営状況により大きく変動する。
※4 1970年3月31日に共産主義者同盟赤軍派が起こした日本航空機ハイジャック事件。よど号は犯人グループの指示で北朝鮮に着陸し、犯人は亡命した。-出展:Wikipedia
岡田敏章
昭和37年(1962年)1月生まれ、現在56歳。子供の頃からパイロットに憧れていました。中学校1年生の時、TBSテレビで田宮二郎主演の「白い滑走路」というドラマを見てますますパイロットになりたいと思うようになりましたね。高校時代は合唱部です。航空大学校を目指して受験※5しましたが、現役・一浪の2度とも身体検査で落ちてしまったので北海道大学に進みました。北海道大学ではボートにのめり込み過ぎて1年留年し、大学卒業の時にパイロット自社養成採用試験が日本航空(JAL)で開始されたので受けたのですがまた身体検査で落ちてしまいました。そこでパイロットの夢を諦めて一般企業のキヤノンに就職したのです。3年8カ月勤めている途中にJALの航空機関士(フライトエンジニア)※6採用試験があったので、27歳になっていましたが最後のチャンスと思い、8度目の挑戦にして何とか合格し、フライトエンジニア訓練生としてJALに入社しました。エンジンを3基搭載したDC-10という飛行機のフライトエンジニアを43歳まで13年間務めた後、念願であったパイロットへの職変訓練をおよそ4年半受けて2009年7月、47歳にして漸くボーイング767の副操縦士になれました。
ところが翌2010年にJALが破たん※7し、会社を辞めざるを得なくなってしまったのです。パイロットになって間もなかったためパイロットとしての飛行時間が1,200時間しかなく、経験が少なかったこともあって国内では再就職できませんでした。そのため2011年に人のつてを頼ってタイのバンコクにある航空会社に何とか再就職しました。そこで約1年半、タイのバンコクやプーケットから中国、韓国、香港などの路線を、また一時は中東のサウジアラビアのジェッダを拠点にトルコ、オマーン、インド、北アフリカのチュニジアなどの路線を飛んでいました。そうこうしているうちに、AIRDO(エアドゥ)のパイロットに欠員が生じてお誘いを受け、2013年2月に51歳で入社しました。
※5 当時の航空大学校は、高卒が受験要件で年齢制限は20歳以下、即ち2浪まで3回受験の機会が与えられていた。現在は短大卒同等以上、24歳以下。
※6 現在の旅客機は機器の信頼性が向上した事やコンピューターによる自動化が進んだことによりパイロット2名で運航されているが、JALにおいてはボーイング747-300型機以前の旅客機には2009年(DC10型機は2005年)まで、パイロットを補佐してエンジンやその他重要なシステムを操作・監視する要員としてフライトエンジニアが乗務していた。
※7 2008年のリーマン・ショックのあおりを受けて2010年(平成22年) 1月、日本航空の負債総額は2兆3,000億円にのぼり会社更生法の適用をうけ破たん。しかしながらその後わずか2年でV字回復し、2012年に東京証券取引所第1部に再上場した。
司会)岡崎
薬師さんも岡田さんもかなり苦労なさいましたね。