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報告

2020年3月26日(火)

同窓生列伝-1- ギネスブック認定記録樹立 2年B組「人間椅子」/1981年(昭和56年)卒 第33回生 #1

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【始めに】

1979年(昭和54年)9月の第39回学園祭(文化祭)2日目にギネスブックの記録更新をかけて「人間椅子」というイベントが高校2年B組のクラス参加の催しとして行われた。

人間椅子」とは、自分の膝に前の人が腰掛け、さらに前の人が腰掛けというように人が椅子となって列を作り、最初と最後の人がつながって途切れることなく1分間静止する、というルールに基づく競技だ。

79年(昭和54年)時点でのギネスブック公認世界記録は3,394人、2年B組がこの時達成した人数は3,330人で、わずか65人足りずに涙をのむ。そして翌1980年(昭和55年)、第40回の学園祭において元2年B組のメンバーを主体に「高3有志人間椅子」と改称したクラス参加団体が、この年の公認世界記録5,147人を660人以上も上回る5,810人の記録を達成し、ギネスブック認定員から公式に認定され、城北高校の名が見事にギネスブックに掲載された。

初回、2回目ともにテレビ特番「チャレンジ・ザ・ギネス」(フジテレビ系列)という全国ネットの放送で城北の「人間椅子」の模様が放映され、学園内外で話題となった。今回広報・ホームページ委員会が主催し、常任幹事会役員の嶋野春男幹事長(第22回生)の司会により、当時、2年B組/高3有志人間椅子の主要メンバーであった6名に、記録挑戦と失敗、再挑戦と記録達成に至る話を伺った。

  • 司会:嶋野 春男幹事長(第22回生)
  • 2年B組[1981年(昭和56年)卒・第33回生]:清水 明浩氏、森 秀一氏、大谷 勝氏、宮下 尚之氏、倉林 康隆氏、石井 光雄氏

↑1979年9月23日 1回目の挑戦/1981年の卒業アルバムより

 

文化祭のクラス出展が「人間椅子」、協調と確執の中で光明を見出す

司会/嶋野:当時、私もこの「チャレンジ・ザ・ギネス」の人間椅子が行われたグラウンドに居合わせておりましたけれども、なぜ「人間椅子」をやろうと考えたのか最初に伺えますか?

清水:高校2年B組が文化祭の出し物として何をやろうかと話し合い始めたところ、最初は「喫茶店」もあるし「占い」もあるしどれにする?ってところから始まったのです。そうしたら、どこにでもあるような出し物してもつまらないよ、それならどうするかってことになりました。

:後夜祭のグラウンドに何千人も当時は集まりましたよね、あれだけの数が集まるならその人数を利用してギネスブックに挑戦するっていうのはどう?と誰かが云い出したのがきっかけで、ギネスブックを買ってきて、生卵のキャッチボールだのなんだのと様々実際にやってみて、どれができそうかなって話し合いました。そしたら「人間椅子ならいけるんじゃない」ってことで決まりました。

大谷:文化祭のクラスの出し物っていう路線からは最初から違っていたよね⁉どう考えても文化祭実行委員会がやるべき規模と企画なんじゃないの、これ?

:クラス出展が「人間椅子」に決まってから、清水が文化祭実行委員にお伺いに行ったんでしょう?

清水:4千人規模のイベントとなると、室内で展示を見ている人まで誘い出して校庭に動員しなくてはならないのと、後夜祭のフォークダンス(※1)の前にやり遂げなければならないので、最初は高3の文化祭実行委員会の先輩方に「何で後夜祭のフォークダンスの前にお前らのために集客しなきゃならねえんだよ」と全くいい顔をされませんでしたね。

――※1フォークダンス:1980年代半ば頃まで文化祭の2日間、16時から18時半まで校庭でファイアーストーム=廃棄された木製枕木を井の字型に1.5mほどの高さに積み上げ火をつけた巨大な火元=を焚き、それを囲むように幾重にも輪を作り、来校者と在学生がフォークダンスなどを踊った。首都圏でこうした演出で数千人規模のフォークダンスができる学校は稀で、城北の文化祭の象徴として女子学生に話題のイベントであった。初日を「中夜祭」、2日目を「後夜祭」と称した。(広報委員会)――

↑ファイアーストームを焚いてフォークダンス/1980年卒業アルバムより

 

:実際に初回の挑戦の時は、もう少しでギネス記録達成かとクラスの仲間は意気込んでいましたから、持ち時間の終了間際までダッグアウトの周りにいる人たちに「協力して下さ~い」とか叫んでたんです。でも、そのそばから高3の文化祭実行委員に「もうやめろ」と制止に入られて、嫌な思いをしましたよ。ですから、2回目の挑戦のときは自分たちが高3になってましたので、文化祭実行委員会や生徒会ともうまく協力して挑めました。

司会/嶋野:後夜祭の時でなく中夜祭の直前にもできたのに、なんで後夜祭の日に当てこんだの?

宮下:テレビ局の都合で2日目の後夜祭の前にやることになったんです。この「チャレンジ・ザ・ギネス」は、当時人気アナウンサーだった久米宏さんがTBSから独立してフリーになって初めて、フジテレビでメイン司会をされた番組でしたから、局の意向に合わせました。

司会/嶋野:フジテレビに「人間椅子やりますから取材してください」と頼み込んだのですか?

倉林:そうです。当時のフジテレビはこの「チャレンジ・ザ・ギネス」の放映時にギネスブックの認定員を局に呼んでいて、VTRを見せて記録達成か否か認定させていました。

清水:クラスの中には「テレビ局を入れないで自分達でやるべき」という派と「いや、入れるべきだ」という派に分かれて、放課後随分遅くまでクラス討論で意見を戦わせたよね。

石井:私は、テレビ局を入れた方が人が集まりやすくなるから、と説得したんですけれど、清水からは、自分たちだけでやり遂げるから意味があるんだろ、と散々責められました。

:毎回遅くまでテレビ局入れる、入れないでクラスの話し合いが続くから、バレー部の練習に出られなくて、後輩が呼びに来ても教室から抜け出られなかったよ。

大谷:賛成派の石井と反対派の清水の2人とも、今じゃテレビ関係者だもんな(笑)。

司会/嶋野:クラスの中に「人間椅子」をやるグループがまずあってやり始めたのではなくて、最初からクラス全員でやろうとなったのはなぜ?

倉林:2年B組の50人の出し物としてやろうとクラス全員で決めました。

:その中から「俺これやる」「こっちやる」という人が現れて、なんとなく自然と役割分担とリーダーが決まっていったのです。

司会/嶋野:担任はどなたでしたか?

:国語科の東谷篤先生です。

 

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